新連載「翻訳の不思議」。翻訳家の樋口武志さんと有好宏文さんがリレー形式で、気になる英語と文学作品を取り上げ、その翻訳について考察します。初回は樋口さんが、2022年に全米図書賞などを受賞した『The Rabbit Hutch』を題材に語ります。
アフリカ系アメリカ人の口語から生まれた言葉
wokeといえば、ここ数年でよく見聞きするようになった言葉だ。メリアム・ウェブスター辞書には2017年9月に登録されている。awake(形容詞、目が覚めて)の代わりにwokeを使うことが多かったアフリカ系アメリカ人の口語から広まった言葉だという。
その辞書では口語の用例として次の文を挙げている。
I was sleeping, but now I’m woke.
寝ていたが、いまは目を覚ましている
本来awakeであるべきところにwokeが使われ、意味としてはawakeと変わらない。
「Stay Woke」という標語は、もともと黒人コミュニティーの中では「既存のパラダイムを疑い、より良いものを追い求める」といった意味合いであったが、2014年のブラック・ライブズ・マター運動(※1)において、警察の暴力や不正義を見逃すな/目をつぶるなといった文脈で用いられるようになったとされている。
※1 Black Lives Matter(BLM)。黒人に対する暴力や人種差別の撤廃を訴える運動。
それ以降は知っている人も多いだろうが、wokeは人種差別だけでなく、あらゆる社会正義の問題(気候変動、ジェンダー、銃規制、経済格差など)に「目覚め」、敏感に反応する人やものを指すようになった・・・のみならず、そうした人たちの正義の追求が過剰であるとして、最近では「意識高い系」や「目覚めちゃってる人」といったニュアンスで揶揄(やゆ)として使われることも多い。
Wokeがキーワードの小説『The Rabbit Hutch』
確認しておきたいのは、最近でこそ批判的に使われるwokeだが、元々の意味(=今をしっかりと見据え、より良いものへと向かっていく)はポジティブなものだということ。2022年に全米図書賞を受賞した『The Rabbit Hutch』(Tess Gunty著)は、そういうポジティブなwoke=awakeがキーワードになった小説だ。
10代の女性である主人公は、たまたま出会った同じアパートの住人ジョーンに、次のように語る。
We’re all just sleepwalking. Can I tell you something, Joan? I want to wake up. That’s my dream: to wake up.
みんな、寝ぼけながら歩いてるだけ。あのさ、ジョーン。わたしは目を覚ましたいんだ。それがわたしの夢。目を覚ますこと。
どうして目を覚ましたいのか。彼女は、いわゆるラストベルト(※2)の都市に暮らし、「ラビット・ハッチ(=ウサギ小屋)」と呼ばれる古い集合住宅に住んでいる。親はおらず、自分と同じように里親の下で育った同年代の男子3人と同居中だ。高校は中退している。
しかも街は「Top Ten Dying American Cities(アメリカの死にゆく都市トップ10)」に名を連ねるような場所である。そんなふうに何重もの閉塞があり、目を背けたくなるような現実だが、しっかり「目を覚まして」生きていきたい、と言っているのである。
※2 The Rust Belt。さびた地帯。アメリカ中西部の、かつて石炭産業、製鉄、製造業が栄えた一帯を指す。
暮らしている街やシステムに起因した閉塞(へいそく)感から抜け出そうと、登場人物たちはそれぞれのやり方で苦闘している。息の詰まるような苦しみだが、その果てにやってくるawakeには希望が感じられる。
目を覚まし、より良いものへと向かっていく。この本を読んで、そんな前向きなawakeを味わってもらいたい。オーディオブックは、著者のテス・ガンティ自身がナレーションを担当しているという(本来のナレーション担当が新型コロナウイルス感染症にかかり、急きょ代役を務めたのだ)。
ジェンダー意識の高さをどう訳出するか
『The Rabbit Hutch』はアメリカのさまざまな側面を切り取っている作品だけあって、主要キャラクター(①=モーゼス)が出会う相手の中には、いわゆる“WOKE”であろうと思われる人(②)も登場する。ジェンダーに「意識が高い」ことがよく分かる会話だ。
① “Each man is an expert on himself, so—"
② “Person.”
① “What?”
② “Person.”
① “When I say ‘man,’ I mean ‘mankind,’” explain Moses.
② “Your speech is codified in patriarchal microaggressions.”
モーゼス(①の人)が、each manやmankindといった言葉を使っていることに対し、wokeしている人(②)は、manは男性をイメージさせるものなので性差のないpersonを使え、と言う。mankindも(manが入っているから)「あなたの言葉はpatriarchal microaggressions=男社会の自覚ない差別」で成り立っているというわけだ。
さてこの文章、どうやって翻訳すればいいだろう・・・。ビジネスマン→ビジネスパーソンと同じ変換をしたいけれど、日本語だとmanもpersonも素直にやればどちらも「人」と訳すことになる。でもmanとpersonの対比であることは分かるように伝えたい。どうしよう。困った!
さんざん頭を悩ませても解決策が思いつかないものは、なんだか負けた気分になりながらルビを使ってみる。
「どんな人(イーチ・マン)も、自分についての専門家なんだから・・・」「パーソンね」「え?」「パーソン」「『マン』というのは、『人類(マンカインド)』って意味だよ」
もちろん、英語を残すのではなく、「英語をいったん忘れ、日本語で同様の対応関係を作れるか」を考えることもできる。相談した知人は、以下のような形を考えてくれた。
「僕らはみな、自分についての専門家なんだから・・・」「われわれね」「え?」「われわれ」「『僕ら』というのは、『僕ら人間』って意味だよ」
こちらの方が日本語としてずっと自然だ。ただし、英語ではmanとpersonが対比されている場面だと伝えたい場合はどうなるだろう・・・そこでふたたびルビが登場。
「僕らはみな(イーチ・マン)、自分についての専門家なんだから・・・」「われわれ(パーソン)ね」「え?」「われわれ(パーソン)」「『僕ら(マン)』というのは、『僕ら人間(マンカインド)』って意味だよ」
これはだいぶいい感じがする。でも、personを「われわれ」としてもいいだろうか。もっといい案があるのではないだろうか。そもそもこれって、伝わっているのだろうか・・・。そんなことを考えていると数時間が経ち、翻訳が全然進んでいない、というのは翻訳者あるあるだろう。
今回紹介した本
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