この上なくしょうもない、避けられない戦い~ウィキペディアの編集合戦【北村紗衣】

多くの方の調べものに役立っているオンラインの大事典「ウィキペディア」。どうせ使うなら、その本当の姿をよく理解して使いたい――。ウィキペディアの執筆者・編集者のお一人である北村紗衣さんに、今回はウィキペディアでたびたび勃発するという「編集合戦」について教えていただきます。

編集合戦とは何か?

前回の記事では、ウィキペディアの舞台裏で行われている面白い活動であり、ポジティブな側面である良質な記事や珍項目の選考について説明しました。

今回はネガティブな側面について説明します。つまり、「編集合戦」です。

編集合戦というのは、「Wikipedia:編集合戦」の言葉を借りると、「ノートでの話し合いによらず、他者の編集について互いに取り消しや差し戻しを繰り返し、自分の編集を押し通そうとすること」です。

編集合戦」の解説ページ(2023年10月2日にキャプチャー。以下同)

ノートというのは、あるページについて議論を行うための管理用ページで、ウィキペディアを見る人が使う標準名前空間にある記事ページのみならず、全ての空間にあるページに付けることができます。

標準名前空間にある記事では編集したユーザは署名を行わないので、履歴を見ないと記事を書いた人が誰なのか判断することができませんが、ノートページでは各ウィキペディアンがアカウント名を使って署名をすることになっており、誰と誰が議論をしているのかを明確にすることになっています。

通常、記事について議論する時はそれぞれの記事に付属したノートを用い、合意形成を行ってから編集しないといけません。しかしながら一つの記事についていろいろなユーザが議論なしで書き換えたり、差し戻し(他人の編集を元に戻すこと)を行ったりするのが繰り返されることがあります。これが「編集合戦」です。

編集合戦はいつ始まるのか?

編集合戦はどういう状態になると「始まった」と言えるのかはあまり明確に定義されてはいません。しかし、一般的に「スリー・リバート・ルール」と呼ばれているルールがあり、同じ記事で24時間以内に3回以上リバート(差し戻し)が発生すると編集合戦が始まったと見なされます

スリー・リバート・ルール」のガイドラインページ

ただし、ページに「バーカ!!」とか「うっひょー」とかいうような無意味な内容を書き加えるなど、明らかな荒らし行為に対応する場合などはこのルールは適用されません。そんなことをする人がいるのか・・・と思うかもしれませんが、一つの記事に何度も無意味な内容を書き加えたり、全く別の記事にすり替えたりして、他のユーザが差し戻しても復活させるというようなことをして楽しんでいる悪質な暇人は結構多く、荒らしを差し戻しているとすぐに3回くらいはリバートが発生します。ただし、これは編集合戦とは見なされません。また、リバートが3回発生していなくても、とんでもない速度で複数名による記事の書き換えが行われ、収拾がつかなくなっているような場合は編集合戦と見なされます

編集合戦が発生すると、だいたいどこかの時点で保護などの対応が取られ、記事自体の編集ができなくなり、後はノートでの議論になります。場合によっては議論が長期にわたって続くのでノートが肥大化し、記事よりもサイズが大きくなって過去ログ化されることもあります。むしろ編集合戦の主戦場はノートだと言ってもよいくらいです。

編集合戦はどんな記事で起こるか?

では、編集合戦が起こりやすい記事とはどういう記事でしょうか?パッと思い付くのは政治とか戦争犯罪、宗教などに関するものです。例えば日本語版では、神道系宗教団体ワールドメイトの教祖である深見東州(地下鉄などにこの人の著書『強運』の広告が貼ってあるのを見たことがある方もいるかと思います)の記事です。

この記事は宣伝的であるとして何度も編集合戦が起こっており、記事はかなりの期間保護されていました。ノートはあまりにも肥大化したため過去ログ化されて、しかもログがひとつでは足りず、6番まであります(すごい量だと思うかもしれませんが、ウィキペディアで10年くらい過ごすとこんなのは日常茶飯事のように見かけるようになります)。このノートには「ここは記事『深見東州』の改善を目的とした議論用ノートページです」というテンプレートがあります。しかし、これはだいたい雲行きの怪しい記事のノートに貼られるもので、経験あるウィキペディアンならノートを見た瞬間にこの記事はたぶんヤバいと気付くでしょう。

戦争が起こるとウィキペディアでも編集合戦が発生します。2022年2月にロシアがウクライナを侵略して以降は、各言語版でロシアやウクライナ関係の記事の編集が過熱し、日本語版でもそれまで「キエフ」が主だった首都名の表記を「キーウ」にするかどうかなどをめぐる編集合戦や、それに伴う議論がいろいろなところで起こりました。結局「キエフ」の記事は「キーウ」に改名されましたが、4月1日に改名提案が提出され、議論が終結したのは7月4日でした。3カ月以上、全くのボランティアであるウィキペディアンたちが、ウクライナの首都の表記をどうするかについて侃々諤々(かんかんがくがく)やっていたことになります。

こういう記事は、ウィキペディアンでなくてもなんとなくもめそうなのは分かると思いますが、実はどこが火種なのか全然分からないような記事でも編集合戦は発生します。

「キーウ」の議論用ノートページ

こんなことで合戦勃発?

英語版ウィキペディアンにはダメすぎる編集合戦を集めた一覧ページがあります。そこにリストされている「Star Trek Into Darkness」(2013年の映画『スター・トレック イントゥ・ダークネス』)の記事は、あまりにも編集合戦とそれに伴う議論が肥大化したため、英語版ウィキペディアの標準名前空間にこの編集合戦自体を扱った「Wikipedia Star Trek Into Darkness debate」(ウィキペディアにおける『スター・トレック イントゥ・ダークネス』論争)という記事ができてしまうほどでした。

これは記事名の前置詞intoをIntoと大文字で始めるべきか、intoと小文字にすべきかをめぐるものでした。ウィキペディア英語版のスタイルマニュアルによると、Into Darknessが副題ならIntoは大文字で始めることになっており、Star Trek Into Darknessというひとまとまりのタイトルなら、5文字より短い前置詞は全部小文字にする決まりがあるのでintoとなります。

なんでそんなことで編集合戦が・・・と思うかもしれませんが、これはウィキペディアンからするともめやすい要素がてんこ盛りです。

『スター・トレック』は英語圏では大人気でファンがたくさんおり、その新作映画となると注目される記事になります。さらに「キーウ」の例を見ても分かるように、記事名はウィキペディアでは最ももめやすいものの一つです。端から見ると変な人たちが理屈で殴り合う不条理劇みたいに見えますが、この議論に関わっているウィキペディアンたちは至って真面目です。この記事のノートはアーカイブのログが11番まであり、注目度が高くて一般紙などで報道されてしまったため、記事を立てるだけの価値(ウィキペディア用語で「特筆性」と言います)があると見なされて「Wikipedia Star Trek Into Darkness debate」の記事ができました。

『スター・トレック イントゥ・ダークネス』論争のページ

編集合戦に勝ち負けはあるのか?

ここまで読んで、編集合戦に「勝ち負け」はあるのか・・・?と思った方もおられるかもしれません。模範的な回答は「ありません」です。なぜならウィキペディアでは合意形成が大事で、どんな編集合戦でもなんらかの合意が必要です。「ウィキペディアは戦場ではありません」とか「ウィキペディアは勝ち負けの場ではない」みたいなページがあるくらいで、ウィキペディアンとしては勝ったり負けたりすることを目指すのではなく、落としどころを探って政治的解決をはからねばなりません。

「ウィキペディアは勝ち負けの場ではない」のページ

・・・とはいえ、人間社会で生きている大人なら誰でもわかるように、これは建前です。実際には、編集合戦に巻き込まれたウィキペディアンはたいてい勝とうとします。ウィキペディアは非常に官僚主義的で、規則でがんじがらめの世界なので、こういうときにウィキペディアンが一番よく使う勝利のための戦略は、敵対している相手方が日本語版ウィキペディアの方針やガイドラインのいずれかにのっとっていないと主張することです。

あまりにも数が多いので全ての規則をちゃんと覚えているウィキペディアンはほぼいないと思われますが、経験が長いと「このガイドラインをこう解釈すれば相手の弱点にこう突っ込める」などということを考えて議論できます。また、ウィキペディアは先例主義的なところもあるので、ウィキペディア外の報道ではどういう言葉が使われているかとか、ウィキペディア内でこれまでの類似議論がどのように終結したかとか、そういったことを持ち出すこともできます。法文解釈や判例を参照する裁判にちょっと似ていますね。これを全く無償で、法律の専門家でもなんでもないウィキペディアンたちがものすごい時間を費やしてやるわけです。

なぜウィキペディアンたちはお金をもらっているわけでもないのに、こんなに手間暇かけて編集活動に参加するのでしょうか?ウィキペディアにはいったいどういう魅力があるのでしょうか?次回の連載では、ボランティアの活動の場としてのウィキペディアの理念や魅力、カルチャーについて触れたいと思います。

北村紗衣
北村紗衣

武蔵大学人文学部英語英米文化学科准教授。著書に『 シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち──近世の観劇と読書 』(白水社、2018)、『 お砂糖とスパイスと爆発的な何か──不真面目な批評家によるフェミニスト批評入門 』(書誌侃侃房、2019)他。2023年6月に新刊『英語の路地裏 ~ オアシスからクイーン、シェイクスピアまで歩く』 を上梓。
ブログ: https://saebou.hatenablog.com/

北村紗衣さんの新刊

注目のシェイクスピア研究者、北村紗衣さんが、海外文学や洋画、洋楽を、路地裏を散歩するように気軽に読み解きながら、楽しくてちょっと役立つ英語の世界へとご案内。英語圏の奥深いカルチャーに触れながら、高い英語運用能力を得る上で重要な文化的背景を探求します。“路地裏”を抜けた後は、“広場”にて著者自身が作問し解説する「大学入試英語長文問題」も堪能できる、ユニークな英語カルチャーエッセイ。

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