ユダヤ人はいたるところにいる/バーナード・マラマッド【英米小説翻訳講座】

翻訳家の柴田元幸さんが、毎回一人、英米現代・古典の重要作家を選び、その小説の翻訳術を紹介します。まずは作家の特徴がよくわかる文章と、柴田翻訳の妙技をご堪能ください。

紹介する作家:バーナード・マラマッド

Bernard Malamud

1914 年アメリカ、ニューヨーク州生まれ。出自でもあるユダヤの文化を作品のエッセンスとして取り入れた。1967 年の『修理屋(フィクサー)』でピュリッツァー賞フィクション部門を受賞。他の代表作に『ナチュラル』など。1986 年没。

『The Assistant』

The early November street was dark though night had ended, but the wind, to the grocer’s surprise, already clawed. It flung his apron into his face as  he bent for the two milk cases at the curb. Morris Bober dragged the heavy boxes to the door, panting. A large brown bag of hard rolls stood in the doorway along with the sour-faced, gray-haired Poilisheh huddled there, who wanted one. “What’s the matter so late?”“Ten after six,” said the grocer. “Is cold,” she complained.

(The Assistant, 1957)

十一月はじめの街は夜は終わったのに暗かったが、風は食料品店主を驚かせたことにもう鉤爪のように引っ?いた。歩道の端に置かれた牛乳の箱二箱を取ろうと体を曲げると、風がエプロンを顔に投げつけた。モリス・ボーバーはあえぎながら重たい箱を扉まで引きずっていった。堅いロールパンの入った大きな茶色い袋が戸口に、不機嫌な顔で白髪頭の、背を丸めた、パンを一個買いに来たポーランド人と一緒に立っていた。「なんでこんなおそい?」「6時10分」と食料品店主は言った。「さむい」と女は文句を言った。
(『店員』)

Take Pity』">『 Take Pity』

“How did he die?” Davidov spoke impatiently. “Say in one word.”
“From what he died??he died, that’s all.”
“Answer, please, this question.”
Broke in him something. That’s how.”
Broke what?”
Broke what breaks....”

( Take Pity, 1958)

「奴はどうやって死んだ?」ダヴィドフが苛立たしげに言った。「一言で言え」 「何で死んだか?―死んだのさ、それだけさ」 「答えてくれ、この質問に」 「壊れたんだ、奴の中の何かが。そういうことさ」 「壊れたって、何が?」 「壊れたのさ、壊れるものが。(後略)」
(『憐れみを』)
マラマッドの小説の登場人物の会話を読んでいると、言葉はどこまで省略しても意味は伝わるのかの実験のように思えることがある。とにかく最低限の語で済ませてある。だがそれは実験のための実験ではない。言葉が 少ない のは、登場人物たちが疲れていて、多くを喋る元気がないからであり、また、彼らにとって母語ではない、思いのままにならない言語でなんとか意思を伝えようとしているからだ。

イディッシュ(ユダヤ人の日常言語。たとえば最初の引用の“Poilisheh” は「ポーランド人」を意味するイディッシュ)を母語とする人物が英語と格闘する、という状況であれば前例はもちろんある。たとえばヘンリー・ロスの名作 Call It Sleep (1934) で、ヨーロッパからアメリカに渡ってきたばかりの母親が、我が家で息子相手に優雅な言葉をあやつる(“Lips for me ...must always be cool as the water that wet them”〔私にとって唇はいつも、それを濡らした水みたいに冷たくなくちゃいけないのよ〕)のを読んだあと、迷子になった息子を迎えに行った彼女が警官相手に「ありがとうございます」も満足に言えないのを知って(“Thanks so ? so viel!”)、自宅での優雅な言葉はイディッシュの「英訳」だったことに我々は気づかされる。

だが、この母親の二カ国語間「落差」がひたすら悲惨であるのに対し、マラマッドの人物たちの喋る切りつめられた言葉にはある種の詩情がある。貧しい生活、周縁に追いやられた暮らしの中にマラマッドは詩を見出した。これはマラマッドの独創と言ってよいし、その後こうした詩情を彼以上に巧みに操る書き手は現われなかった。

フィリップ・デイヴィスによる見事なマラマッド伝を読むと、この作家は推敲する際も、言葉を削ることでしばしば表現を高めていったようだ。たとえば最初に引いたThe Assistant の食料品店主モリス・ボーバーが死んだ息子を夢に見るとき、第一稿では“Why didn’t you stay alive?”(どうして生きていてくれなかったんだ?)と叫んでいたのが、完成稿では、消えてゆく息子の背に向かって“Stay alive” と叫ぶだけだ。マラマッド自身はアメリカ生まれだが、彼の父母はモリス・ボーバーと同じく、ロシアからアメリカに渡って小さな食料品店を経営していた。

マラマッドの初期作品の多くは―そして彼の最良の作品がおおむね初期作品であることは大方の意見の 一致する ところである―そんな両親への静かな賛歌だった。The Assistant でモリスが向きあっている、まだ11月初旬だというのにすでに身を刺すような風の吹く夜明け、それがこの作家の文学的原風景である。

だからこそ、時おり顔を出す明るい風景、ほとんど童話のような情景は、つねに大きな意味を持つ。たとえば、自分は天使だと 主張 しつづける黒人と、それを疑う、病気の妻を抱えたユダヤ人との物語“Angel Levine”(The Magic Barrel 所収)。結末で降ってくる白いものは、天使の証である羽なのか、それともただの雪なのか?その直後に現われる、病が癒えて埃や蜘蛛の巣を払っている元気な妻の姿は、現実なのか、幻想なのか?それが決められないからこそ、 希望 としてリアルなのだ。

“‘A wonderful thing, Fanny,’ Manischevitz said.‘Believe me, there are Jews everywhere’”(「素晴らしいことだよ、ファニー」とマニシェヴィッツは言った。「本当だよ、ユダヤ人はいたるところにいるんだ」)

― “Angel Levine” はこう終わる。これを自民族礼賛と読む必要はない。マラマッドにとって「ユダヤ人」とは「苦しむ人」のことであり、かつ「義の人」、言い換えれば「人のために苦しむ人」でもある。肌の色、髪の色は無関係なのだ。そして潜在的には、誰もがユダヤ人でありうる。完成稿からは削られたが、『店員』の第一稿には“Everybody is a Jew but they don’tknow it”(人はみなユダヤ人だが人々はそれを知らない)という言葉が入っていた。

柴田元幸さんの本

ぼくは翻訳についてこう考えています -柴田元幸の意見100-
文:柴田元幸

1954(昭和29)年、東京生まれ。米文学者、東京大学名誉教授、翻訳家。ポール・オースター、スティーヴン・ミルハウザー、レベッカ・ブラウン、ブライアン・エヴンソンなどアメリカ現代作家を精力的に翻訳。2005 年にはアメリカ文学の論文集『アメリカン・ナルシス』(東京大学出版会)でサントリー学芸賞を、2010年には翻訳『メイスン&ディクスン(上)(下)』(トマス・ピンチョン著、新潮社)で日本翻訳文化賞を、また2017年には早稲田大学坪内逍遙大賞を受賞。文芸誌「MONKEY」(スイッチ・パブリッシング)の責任編集も務める。

※本記事は『ENGLISH JOURNAL』2018年4月号に掲載された記事を再編集したものです。

出典:Bernard Malamud, The Assistant (FSG)――, The Magic Barrel (FSG) Henry Roth, Call It Sleep (Picador) Philip Davis, Bernard Malamud: A Writer’s Life (Oxford UP)

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