翻訳家の柴田元幸さんが、毎回一人、英米現代・古典の重要作家を選び、その小説の翻訳術を紹介します。まずは作家の特徴がよくわかる文章と、柴田翻訳の妙技をご堪能ください。
紹介する作家:フィリップ・ロス
1933 年アメリカ、ニュージャージー州生まれ。1959 年、短篇集『さようならコロンバス』でデビュー。ユダヤ人の「ユダヤ性」に起因する葛藤をモチーフにした作品を多数発表。1998 年のピュリッツァー賞はじめ、受賞歴多数。
『Portnoy’s Complaint』
*shkotzim: ユダヤ人でない男を意味するイディッシュshegetz の複数形
(『ポートノイの不満』)
ほろ苦い青春小説ともいえるデビュー作中篇「さようならコロンバス」(Goodbye, Columbus, 1959)をはじめ、最初は比較的静かな小説を書いていたロスが、このPortonoy’s Complaint(1969)から、にわかにひどく騒々しい小説を書きはじめる。しかもこの本では、それまでも「ユダヤ人を否定的に描いている」とロスを攻撃していたユダヤ系読者の神経を逆なでするかのように、ユダヤ人主人公が徹底的に戯画化されている。性欲と恥の感覚にまみれた男が、精神 分析 医に向かって悩みをえんえん300 ページ近く訴えるのだ(なので引用文も忠実な直訳というよりは、喋りまくる感じを強調してある)。もともとユダヤ系のジョークやユーモアは自虐が基調になっていることが多いが、この自虐は本当にすさまじい。露骨な性描写も頻出する本書は一大ベストセラーとなり、ロスは誰よりも騒々しいきよほうへんにさらされる作家となった。
その後しばらくは、ニクソン大統領をとことん皮肉ったOur Gang(1971)、カフカの『変身』をもじって、ある朝目が覚めたら乳房になっていた男が語るTheBreast(1972)、常敗野球チームの苦難を笑いのめしたThe Great American Novel (1973)等々、躁病的、悪趣味スレスレ、見る人によっては悪趣味そのものの騒々しい作品が続いた。
だがその後ロスは、アメリカ作家にしては珍しく円熟の度合いをどんどん増していき、1980 年代、自分の分身的存在である作家Nathan Zuckerman を主人公に現実と虚構の錯綜する関係をねちっこく追求した連作を書いたのを経て、20 世紀末には、奔放な性衝動 に従って 生きる人形師の晩年を描くSabbath’s Theater(1995)、娘がテロリズムに走ったことから人生が狂い出す男をめぐるAmerican Pastoral(1997)、何気ない一言をアカデミック・ハラスメントと取られてこれまた人生が狂う大学教授の物語The Human Stain (2000)など、躁病的なエネルギーはそのままに重厚な語りに貫かれた本格長篇を次々発表する。いまや現代アメリカ文学最重要作家の一人であることは誰もが認めるところであり、もう小説は書かないと2012 年に宣言したあとも何かと話題になっている。
最近でも、チャールズ・リンドバーグが1940 年にアメリカ大統領となりヒトラーと結託してアメリカのユダヤ人を迫害する、という(当時のブッシュ政権に対する怒りを反映した)設定のThe Plot Against America(2004)の世界がトランプ政権下の現アメリカによく似ているということで話題を呼んだ。ロス自身はこれに応え、リンドバーグはたしかに極右だったとはいえ若いころは曲がりなりにも偉業を成し遂げた英雄だったが、“Trump, by comparison , is a massive fraud , the evil sum of his deficiencies, devoid of everything but the hollow ideology of a megalomaniac”(一方トランプは、途方もないペテン師、さまざまな欠陥の悪しき合計であり、誇大妄想狂のからっぽのイデオロギー以外に何もない)と断じている。85 歳の今も、往年の騒々しさを彷彿とさせる物言いである。
とにかく過剰なまでのエネルギーが身上のロスだが、60 代の息子が80 代の父親を介護するPatrimony(1991)をはじめ、かなり自伝的な、あまり騒々しくない作品もいくつかあり、これはこれで、パワーが売りのバンドがたまにバラードを手がけるときのような優しさに満ちている。
柴田元幸さんの本
1954(昭和29)年、東京生まれ。米文学者、東京大学名誉教授、翻訳家。ポール・オースター、スティーヴン・ミルハウザー、レベッカ・ブラウン、ブライアン・エヴンソンなどアメリカ現代作家を精力的に翻訳。2005 年にはアメリカ文学の論文集『アメリカン・ナルシス』(東京大学出版会)でサントリー学芸賞を、2010年には翻訳『メイスン&ディクスン(上)(下)』(トマス・ピンチョン著、新潮社)で日本翻訳文化賞を、また2017年には早稲田大学坪内逍遙大賞を受賞。文芸誌「MONKEY」(スイッチ・パブリッシング)の責任編集も務める。
出典:Philip Roth, Portonoy’s Complaint (Vintage)
※ 主要作品はほとんどVintage のペーパーバックが入手可。
Charles McGrath, “ No Longer Writing, Philip Roth Still Has Plenty to Say” (The New York Times, January 16, 2018; https://www.nytimes.com/2018/01/16/books/review/philip-roth-interview.html )