知のあたたかさ/リチャード・パワーズ【英米小説翻訳講座】

翻訳家の柴田元幸さんが、毎回一人、英米現代・古典の重要作家を選び、その小説の翻訳術を紹介します。まずは作家の特徴がよくわかる文章と、柴田翻訳の妙技をご堪能ください。

紹介する作家:リチャード・パワーズ

Richard Powers

1957 年アメリカ、イリノイ州生まれ。大学で物理学を専攻するも、のちに文学を志すようになる。『エコー・メイカー』で全米図書賞を受賞。代表作に『囚人のジレンマ』などがある。現在は大学で教鞭を執りながら執筆を続けている。

Bug Variations』">『The Gold Bug Variations』

We walked once in the drifted snow, the three of us, on a day written off, lost, abandoned to the world. Dr. Ressler, against the white background, speculated about the implausibility of those snow tracks, the creatures that made them. “Birds surely don’t possess compositional sense , musical volition. They sing; that’s all. A species’ song is taught by parent to child. But every so many generations, something is lost in translation. A child muffs his riff, mislearns, wings it. If the mistake?highly unlikely? works a better attraction, this new melody will be taught to more chicks than flock average, and in time the twist becomes status quo . Insertions, deletions, transpositions: gaffs ratified or panned in performance . A species might , over considerable time, whistle its way from a G major scale into the Goldberg Base .”

(The Gold Bug Variations, XIV)

私たちはあるとき、吹き寄せられた雪のなかを歩いた。3 人で、もう今日は無駄になった、失われた、世界に奪われたと思える日に。ドクター・レスラーは、白い風景を背に、それら雪の中の足跡のありえなさ、それら足跡を作った生き物のありえなさを考察した。「鳥はむろん、作曲的な感覚を、音楽的な意志を持たない。彼らは歌う―それだけだ。種の歌は親から子供に伝えられる。だが何世代も続くなかでごく稀に、何かが翻訳で失われる。子供がリフをやりそこない、間違って覚え、即興で切り抜ける。もしその誤りが― 可能性 はきわめて薄いが―よりよい出し物となるなら、この新しいメロディが、群れの平均以上の雛たちに教えられ、やがてそのひねりが現状となる。挿入、欠失、転位―ヘマが演奏において批准され、選別される。ある種が、長いあいだピーピー鳴いているうちに、ト長調のドレミファから『ゴルトベルク変奏曲』の基音にまで進化する かもしれない んだ」

(『黄金虫変奏』14 章)

ワシントン大行進の特集に合わせてジェームズ・ボ ールドウィンをあいだにはさんだが、ここ数回、レイ モンド・カーヴァー→チャールズ・ブコウスキー→ア グネス・オーエンズ、と一見貧しい言語を雄弁に使う 書き手たちを論じてきた。なので今回は逆に、博覧強 記で知られ、文系理系を問わずさまざまな分野の知を 作品内に持ち込む― したがって 言語的にもおそろし く豊かな―作家リチャード・パワーズを取り上げる。

この人の作品を訳す上では、当たり前の話だが、そこ に詰め込まれた膨大な知識を極力再現することがまずは 肝要である。一般に訳注は小さな親切というより大きな お世話になることが多いが、パワーズを訳す上ではそん なことは言っていられない。たとえば、次のような一文。

Civilized yards are all alike. Every wild yard is wild in its own way.
整えられた庭はみな似たようなものである。野性の庭はみなそれぞれ違った野性を抱えている。
―これは、人知を超えた木の叡智を主題とする最新作 The Overstory の後半に出てくる一節なので、言ってい ること自体に誤解の余地はない。だが、次の一文を知っているか知らないかで、この一節の楽しさは変わってくる。
Happy families are all alike; every unhappy family is unhappy in its own way.
幸福な家庭はみな似たようなものである。不幸な家庭はみなぞれぞれ違った不幸を抱えている。
―トルストイ『アンナ・カレーニナ』の有名な書き 出しの英訳(Constance Garnet訳)。これを知ってい る方が、上のパワーズの一節を読むのもずっと楽しい。こういう箇所は注があっていいだろう。

でもそんなのは些末な知的遊戯にすぎないじゃない か、という批判が聞こえてきそうだがそんなことはな い。庭にあてはまることが、人間の家庭にもあてはま る―こういうアナロジーは、パワーズにとって世 界の中へより豊かに入っていくための主要な道具であ る。左の引用は、DNA と『ゴルトベルク変奏曲』(と グレン・グールド)の話である1991 年刊の大作The Gold Bug Variations からの一節だが、ここでも音楽用語(“compositional sense , musical volition”)と遺 伝子工学用語(“Insertions, deletions, transpositions”) が入り交じることで、生物の進化も変奏曲も「メッセージが間違って伝わることの創造性」という一点でつ ながり、世界の見え方はいっそう奥行きを増す。

むろん、これだけアクロバット的に言語が使われて いると、細部は時に失われざるをえない。ふたたび最初の引用を見れば、たとえば“lost in translation” と いう、普通は否定的な意味合いで使われるフレーズ が、ここではいわば進化を「創造的な誤訳」と捉える ことで肯定的な意味を結果的に帯びる、という逆説的 面白さは何となく伝わるだろうが、“muffs his riff” と いうフレーズの語呂のよさなどは、まさしく“lost in translation” となってしまうだろう。

それでも、再現 できるところは再現し、注を加えることで小さな親切 になりそうなところは積極的に加え、とにかくパワー ズの驚異的な知が決して冷たい知ではなく、とても楽 しい、あたたかい知であることが自ずと伝わるよう、 意味のみならず文章のノリのよさ、イキのよさの再現 に努めていくしかない。

2000 年にパワーズ氏に初め て会ったとき僕は第2 作Prisoners’ Dilemma を訳し はじめたところだったが、この本を訳す上でどういう ことに気をつければいいか、と訊いたところ、どのみ ち細かいところまで訳すのは不可能なんだからとにか くvoice を伝えてくれ、と言われたことを思い出す。

インターネットが普及して、パワーズの小説に親し むことは前よりだいぶ容易になった。特に、さまざま な音楽が次々言及されるOrfeo(2013)が出たとき は、YouTube はこの小説をより豊かに読むために作 られたんじゃないか、とすら思えたものだ。ナチスの 強制収容所で作られたメシアンの四重奏曲(Quartet for the End of Time)、アメリカのホームレスの目で 書かれた前衛音楽とも言うべきハリー・パーチの怪作 (Barstow)。もちろんどちらも文章で雄弁に描かれて いるから、実際に音楽を聴いていなくても構わないの だが、そこはやはり音楽、「百読は一聴にしかず」だ と言ってもパワーズの不名誉にはならないだろう。

柴田元幸さんの本

ぼくは翻訳についてこう考えています -柴田元幸の意見100-
文:柴田元幸

1954(昭和29)年、東京生まれ。米文学者、東京大学名誉教授、翻訳家。ポール・オースター、スティーヴン・ミルハウザー、レベッカ・ブラウン、ブライアン・エヴンソンなどアメリカ現代作家を精力的に翻訳。2005 年にはアメリカ文学の論文集『アメリカン・ナルシス』(東京大学出版会)でサントリー学芸賞を、2010年には翻訳『メイスン&ディクスン(上)(下)』(トマス・ピンチョン著、新潮社)で日本翻訳文化賞を、また2017年には早稲田大学坪内逍遙大賞を受賞。文芸誌「MONKEY」(スイッチ・パブリッシング)の責任編集も務める。

※本記事は『ENGLISH JOURNAL』2018年11月号に掲載された記事を再編集したものです。

出典:Richard Powers, The Gold Bug Variations (Harper Perennial)――, Orfeo (W. W. Norton)――, The Overstory (W. W. Norton)

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