Leanに書くことの豊かさ/アグネス・オーエンズ【英米小説翻訳講座】

翻訳家の柴田元幸さんが、毎回一人、英米現代・古典の重要作家を選び、その小説の翻訳術を紹介します。まずは作家の特徴がよくわかる文章と、柴田翻訳の妙技をご堪能ください。

紹介する作家:アグネス・オーエンズ

Agnes Owens

1926年スコットランド、ミルンゲイヴィ生まれ。7人の子を育て、清掃業などの仕事をしながら作品を発表。寡作だが、Polygon社刊のThe Complete Short Stories, The Complete  Novellas の2 冊で全作品を読むことができる。2014 年没。

『The Moneylender』(2008)

Before giros1 came by post I remember my Da saying we should all start walking to the broo2 to save on bus fares, since now we were in the hands of that heartless Tory3 Thatcher woman. Marlene, my older sister, said he could go and take a fuck to himself, she wasn’t going to walk. My brother Danny said he didn’t mind walking as long as he had enough fags4 to last all day without having to borrow from our mother. I was still at school so didn’t have to say anything.

*1 giro: 郵便為替(イギリスでは失業手当などの給付に使われる)
*2 broo: スコットランドの生活保護局( bureau のグラスゴー訛り)
*3 Tory: 保守主義者(19 世紀前半まで続いた保守党the Tories から)
*4 fag: タバコ

生活保護の小切手が郵送されるようになる前、うちの 父さんが、これからは社会保障局まで歩いていってバ ス代を節約しなきゃいけない、俺たちはもうあの無情 な保守のサッチャーとかいう女に首根っこ押さえられ てるんだから、と言っていた。姉さんのマーリーンは、 歩きたきゃ父さん勝手に歩けば、あたしはまっぴらよ と言った。兄貴のダニーは、母さんからせびらずに一 日分の煙草があるんだったら歩いてもいいと言った。 あたしはまだ学校に通ってたから何も言わなくてよか った。 (「金貸し」)
この連載は原則として、すでに名の通った作家を取 り上げ、その作家の文章そのものに焦点を当てて書い てきたが、今回はあまり知られていない作家を取り上 げることをお許し願いたい。

7 月号では「シンプルな言葉で、豊かな行間」をひ そかなモットーとする書き手レイモンド・カーヴァーを扱い、8 月号では「シンプルな言葉で、行間なんか 知るもんか」という姿勢の書き手チャールズ・ブコウ スキーを扱った。前回9 月号ではワシントン大行進特 集に合わせて黒人作家ジェームズ・ボールドウィンを 取り上げたが、今回取り上げたいのは、7、8 月号の 話の続きとしてぜひ見ておきたい作家である。

1985 年、スコットランド3 作家による、Lean Tales(痩せた物語たち)というアンソロジーがイギ リスの老舗出版社ジョナサン・ケープから出版され た。その裏表紙にはこうあった:“The three writers of this book live in a British region containing the greatest number of unemployed Scots in the world, the biggest store of nuclear weapons in Europe, and very large lovely tracts of depopulated wilderness”(こ の本に収められた3 人の作家は、イギリスの中でも世 界最大数のスコットランド人失業者と、ヨーロッパ最 大貯蔵量の核兵器と、過疎化した荒野のきわめて広い 美しい地帯を含む地域に住んでいる)とある。要する に、世界とは筋が通っている場所だという思いがおそ ろしく持ちにくい場所。

このアンソロジーに収められた3 人のうち、2 人は ある程度名の通った―少なくともその後には名を知られるに至った―男性作家だった。独特の奇妙 な自作イラストを作品に付すことで知られるAlasdair Gray(Alasdair はAlastair のように発音します)と、 ブッカー賞受賞作が英語でもっとも汚い言葉のひとつ (fk)を約4000 回使っていることで物議を醸した James Kelman。そしてもう一人が、まだ小説を一冊 出したばかりだったこのアグネス・オーエンズである (その一冊Gentlemen of the West にしても、有名な コメディアンの推薦文をもらったら出版すると出版社 に言われ、コピーもとらずにタイプ原稿をコメディア ンに送って当然ながらほったらかしにされ、原稿は永 遠に失われたかと思いきや、2 年後、何と掃除人とし てそのコメディアンの家に派遣されて廊下に積んであ った原稿を取り戻し、何とか推薦文なしで出版に漕ぎ つけたのだった)。

Lean Tales というタイトルのとおり、3 作家による 短篇はその大半がカーヴァーやブコウスキーにも通じ るシンプルな文章で書かれている。特にオーエンズの 文章のぶっきらぼうさは顕著であり、シンプルさの凄 味ということでは、ここにはさらに一段深いものがあ るように思える。

カーヴァーもブコウスキーも、ヘミングウェイの禁欲的にシンプルな文章を、自分たちの知る世界に(カ ーヴァーは北太平洋沿岸の労働者の―といっても 往々にして労働の機会すら奪われた非労働者の― 世界に、ブコウスキーはロサンゼルスに住む自堕落な ―だが案外律儀に仕事をしている―アウトロー的 男たちの世界に)移植することで、余計な文学臭を排 そうとしたヘミングウェイの姿勢をいっそう推し進め ている。それに対しオーエンズの文章は、文学的には イギリス文学的な美文調に対する強烈な反発、社会的 には長年スコットランドを抑圧してきたイングランド に対する等しく強烈な反感が背後にある(前者は左の 引用の文体から明らかであり、後者は内容からやはり 明らかだろう)。カーヴァーを論じるときにstark とい う言葉を使ったが、stark さの度合いは、オーエンズ のとりつく島もない文章にあってはさらに烈はげしいよう に思える。ブコウスキーを読むとカーヴァーの文章が 「文学的」に思えてしまうのと同じように、オーエン ズを読むとブコウスキーのアウトローっぽさがいささ か鼻についてくる。

こう書くと、なんだかオーエンズが一番偉くて、次 にブコウスキー、そしてカーヴァー、と順位がついて しまうように思える かもしれない が、そうではないこ とも強調しておきたい。文章から文学臭が抜きとられ ていることだけが文学の値打ちを測る尺度ではない。 それはあくまでひとつの物差しにすぎない。

とはいえ、それなりに大事な物差しであることもま た確かではある。物質的な豊かさとも文化的な洗練と も無縁の人たちの暮らしを、文学的な気取りをいっさ い感じさせない文章で描き、庶民の逞しさだの素朴な 人情だのといった神話に落とし込むこともせず、どこ までもlean な語りに徹した結果、この知られざるス コットランド作家の文章からは、不思議と解放的な、 独特のユーモアに貫かれた世界が立ち上がってくるの である。

 

柴田元幸さんの本

ぼくは翻訳についてこう考えています -柴田元幸の意見100-
文:柴田元幸

1954(昭和29)年、東京生まれ。米文学者、東京大学名誉教授、翻訳家。ポール・オースター、スティーヴン・ミルハウザー、レベッカ・ブラウン、ブライアン・エヴンソンなどアメリカ現代作家を精力的に翻訳。2005 年にはアメリカ文学の論文集『アメリカン・ナルシス』(東京大学出版会)でサントリー学芸賞を、2010年には翻訳『メイスン&ディクスン(上)(下)』(トマス・ピンチョン著、新潮社)で日本翻訳文化賞を、また2017年には早稲田大学坪内逍遙大賞を受賞。文芸誌「MONKEY」(スイッチ・パブリッシング)の責任編集も務める。

※本記事は『ENGLISH JOURNAL』2018年10月号に掲載された記事を再編集したものです。

出典:Agnes Owens, “The Moneylender,” in The Complete Short Stories (Polygon)

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