英訳で味わう『源氏物語』の奥深い世界と日本文化【言葉とコミュニケーション】

茂木健一郎さんの連載「言葉とコミュニケーション」第34回では、『源氏物語』の英訳について考察します。来年放送予定のNHK大河ドラマ『光る君へ』を前に、アーサー・ウェイリーの英訳を例に、言葉が日本の古典をどのように彩り、日本文化の理解をどう広げるのかを考えてみましょう。日本の作品を英語で味わうことで得られる新しい視点とは?言語や文化の学びに繋がる可能性とは?

英訳から『源氏物語』の魅力を知る、とは?

来年のNHKの大河ドラマは、『源氏物語』の作者、紫式部の生涯を描いた『光る君へ』が放送される予定である。

世界最古の長編小説と言われる『源氏物語』。その魅力を知る上では、さまざまな現代語訳も助けになるが、実は意外な方法もある。かつて、作家の正宗白鳥まさむねはくちょうは、評論家の小林秀雄に、アーサー・ウェイリーの英訳を通して『源氏物語』の魅力を知ったと話した。私自身、ウェイリー訳は素晴らしいと感じている。

ウェイリーは、ケンブリッジ大学に学び、大英博物館に勤務したイギリスのエリート。そのウェイリーが取り組んだ『源氏物語』の英訳が評判となり、英語圏からさらにその他の各地にもこの古典が知られるきっかけとなった。そして、『源氏物語』を生み出した国の作家である正宗白鳥もまた、そのウェイリー訳で『源氏物語』の魅力を知る。言葉というのは、実に不思議である。

詳細がそぎ落とされ、見えてくる作品の本質

なぜ、英語で読む『源氏物語』は魅力的なのだろう?本質的なのは、適切な距離を置くことで、かえって全体が見えるということである。

平安時代の原文にせよ、現代語訳にせよ、私たち日本語話者にはさまざまな細かい点が見えている。それは、日本語を理解しない人には、ニュアンスとして伝わらないことかもしれない。逆に言えば、日本人には見えすぎている。

英訳では、そのような細部は削ぎ落とされてしまっている。その代わりに、人間としての物語の骨格が浮かび上がってくる。だから、小説としての魅力がかえって増すのである。

みかどがもっとも愛する女性(桐壺更衣きりつぼのこうい)は、もともと身分がそれほど高くなかった。寵愛ちょうあいを受けたことが周囲の嫉妬を買って、帝自身もいろいろと思うに任せない。やがて生まれたのは、玉のように美しい男子(光源氏)であった。しかし、心労が重なった桐壺更衣は、病に倒れてしまう。

誰もが知るこのような物語を、英語で読むと、人間関係の本質や、帝、桐壺更衣などの登場人物の心情がストレートに伝わってきて、かえって感動が増す。例えば、帝が、衰弱していく桐壺更衣に対して、「いつかは行かなくてはいけない道ならば、必ず二人で一緒に行こうと誓ったではないか」と嘆く場面では、心の涙腺が刺激されるような感覚がある。

ウェイリー訳の『源氏物語』には、ふだん読むような英文には決してないような柔らかさ、優しさ、そして「もののあはれ」があって、そのことで心を動かされる。英語という他の言語を通して読むことで、かえって、私たちの国日本の文化の本質、感受性の芯のようなものが見えてくるのである。

「言葉の鏡」に映し出される日本文化

英語を通して、日本の作品の本質が見える。似たようなことは、夏目漱石の『三四郎』を英訳で読んだときにも感じたことがある。こちらの訳者は、村上春樹の英訳にも携わっていることで知られるジェイ・ルービンである。

英語で『三四郎』を読むと、日本語では気付かなかったかもしれない物語の骨格が見えてくる。登場人物の印象も変わって、この小説でもっとも主体的に動いているのは、お調子者の与次郎であるということが伝わってくる。三四郎や美禰子みねこといったキャラクターが新しい天地で活動し始める。漱石の新しい魅力が見えてくるのである。

英語を学ぶという意味では、既に内容を知っている日本語の作品を英語で味わうというのは有力な方法である。例えば、スタジオジブリの『となりのトトロ』や『魔女の宅急便』のような作品を、英語の字幕付きで鑑賞するという手もある。すでにおなじみの内容が、英語というフィルターを通して新鮮な魅力とともに心に迫ってくる。

さまざまな国で、日本発のコンテンツの人気が高まってきているので、日本の作品を英語で味わう機会も増えてきている。人気の漫画やアニメを英語で楽しむことは、英語力も高まるし、自分たちのことを見つめるきかっけにもなる。英語を通して日本のことを知ることで、脳の中で「言葉の鏡」を見ているような神経活動が立ち上がる。

自分の日常を表現することへの挑戦

ストリーミングサービスなどを通して、日本のコンテンツを英語字幕で見ることも簡単にできるようになってきた。ぜひ、自分の好きな作品を、英語を通してもう一度味わうという経験をしてほしい。英語に苦手意識がある人でも、親しみやすい入り口になるはずだ。

そして、さまざまなソーシャルメディアで、自分の日常を、英語を通して表現することにも挑戦してほしい。日本を訪れる外国からのお客さんも増え、日本の生活や文化に対する関心も高まってきている。何気なく過ごしている当たり前の日常も、英語というフィルターを通すと魔法がかかったようにキラキラと輝いてくる。外国の方からの反応があれば、そこから生きた英語を学ぶチャレンジも始まる。

とりあえずは、来年のNHKの大河ドラマに向けて、『源氏物語』をアーサー・ウェイリー訳で読むことを試みてはいかがだろうか?自分のお気に入りの現代語訳と比べてみてもいい。さまざまな言語のフィルターを通して振り返ることで、日々、生きることの味わいが深まり、増す。そんな時代に私たちは生きている。

茂木健一郎(もぎ・けんいちろう)
茂木健一郎(もぎ・けんいちろう)

1962年東京生まれ。脳科学者、作家。ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。東京大学大学院客員教授。東京大学大学院物理学専攻課程を修了、理学博士。「クオリア」(感覚の持つ質感)をキーワードとして脳と心の関係を研究するとともに文芸評論、美術評論にも取り組んでいる。

写真:山本高裕(ENGLISH JOURNAL 編集部)

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