有好宏文さんが翻訳を手掛けた、ニコルソン・ベイカーのエッセイ『U&I』は、小説家ベイカーが小説家ジョン・アップダイクについて、その作品を読まずに記憶だけで語るという、ちょっと変わった作品です。本書を翻訳するにあたり、有好さんが悩んだこと、工夫したことなどを紹介いただきます。
読まずに語る「読まず語り」とは?
ニコルソン・ベイカーの『U&I』という本を訳していたときには、果たして自分は何を訳しているのかと不思議な気持ちになった。
小説家であるベイカーが、敬愛する小説家のジョン・アップダイクについて書いた本で、『U&I』というタイトルは「あなたとわたし」という意味にも、「アップダイク(Updike)とわたし」という意味にもとれる。小説家が小説家のことを書いたエッセイだから、もちろん小説がたくさん登場するのだが、この『U&I』がちょっと変わっているのは、ベイカーがアップダイクの作品をぜんぜん正確に引用しないところである。
ベイカーは「アップダイクがこんなことを書いていたような気がする」などと言って、自分の記憶のなかにあるアップダイクの文章を書き、それを基に話をどんどん進める。だから、アップダイクの原文と照らし合わせてみると、間違いだらけなのである。
どうしてそんなことをするのか。本文のなかでベイカーは、アップダイクについてのちゃんとした批評より、アップダイクとその著作が「ぼくの人生においてどう現実に機能してきたのか」を書きたいのだと宣言している。つまり、この本の主眼は、アップダイクそのものを捉えることよりも、アップダイクが自分の記憶のなかにどう収まっているかを捉えることにある。なので、さきほど『U&I』は「アップダイクについての本」だと紹介したが、「アップダイクとベイカーの関係についての本」だと言ったほうが正確だろう。
ベイカーはさらに、執筆中にアップダイクが書いた文章を一言でも目にしてしまったら『U&I』は失敗作になるというジンクスを作り(ちなみに、英語のjinxは悪運をもたらすものという悪い意味にしか使わない)、意地でもアップダイクを読まないことに決める。読んでしまったら、「ぼくが彼をどう理解しているかの地形図は取り返しがつかないほど損なわれてしまう」のだそうだ。
ベイカーは、対象の本を開かずに執筆するこの新しい手法を「Closed book examination」と名付けている。大学などで教科書やノートを持ち込んで調べながら解答することが許される試験は英語で「Open book examination」、何も見ずに受けるごく普通の持ち込み不可の試験は「Closed book examination」と呼ばれる。ベイカーの「Closed book examination」は、後者を下敷きにしたユーモラスな表現だが、本書の文脈では「持ち込み不可試験」では意味が通らない。
いい訳語はないものか。1カ月くらい、ご飯を食べているときも、トイレの中でも、シャワーを浴びているときも、ずっと考え続けていたら、あるとき、「読まず語り」という訳語が降りてきた。野暮を承知で解説すると、日本語の「問わず語り」という表現を下敷きにしてユーモアを再現したつもりだ。「持ち込み不可試験」という原文の元ネタからは離れてしまっているが、ベイカーという人は「聞かれてもいないのにベラベラしゃべっている」感じがするので合っているかな。どうでしょう。
「読まず語り」が生み出すコミカルな間違い
そういうわけで、ベイカーは「読まず語り」を実践して、とんでもない勘違いをたびたび披露する。例えば、アップダイクが『農場』という小説で「タンポポのプール」と書いているのがすごいと、ベイカーは激賞する。タンポポの白くて丸い綿毛がふわふわしているさまを「プール」という斬新な比喩で描いているんだ、アップダイクは一見簡単な言葉で豊かな表現を生み出す天才なんだ、ベイカーはそう褒めちぎる。ところが、これはアップダイクの原文にあたってみると、なんのことはない、タンポポの花の部分のことを「poll(頭部)」という言葉で指しているだけなのだ。しかし、ベイカーの中には「タンポポのプール」という勘違いの方が生きていて、その想像上のアップダイクから彼は多大な影響を受けているのである。
こんな調子でベイカーは勘違いを次々に繰り出す。そして、本書を書き終えた後にアップダイクの原文と「答え合わせ」をしていて、記憶違いが見つかった箇所には、隣に「答え」を括弧書きで添えている。だから、それらを見比べながら読むと、間違いっぷりを楽しめるようになっている。
でも、考えてみれば、この「読まず語り」こそ、読書の本来の姿なのではあるまいか。あなたはお気に入りの本を正確に覚えているだろうか。人が本を読むとき、ふつう文章を一字一句覚えたりはしない。読みながら好きなところ(あるいは嫌いなところ、なんらかの印象に残ったところ)を見つけ、頭のなかにしまっておく。そして記憶は時間とともに変質する。お気に入りの本を思い出そうとしたとき、人が向き合う相手は、そうやって姿を変えた記憶だ。人は本そのものとではなく、本が触媒となって生まれた記憶と関係を結ぶものなのかもしれない。
記憶の滑り方を翻訳する
さて、こうした記憶のずれをベイカーは本書の中で再現してみせているわけだが、これを訳すとなるとなかなか難しい。普通の翻訳なら、原著者に間違いがあった場合に、本人に問い合わせるなどして翻訳で訂正することもあるけれど、今回は間違い自体が芸風なので、間違いを間違いのまま訳さなければならない。でも、間違いを訳すってどういうことだろう。
さきほどのタンポポの件は、それぞれの意味の通りに、「タンポポのプール」(ベイカーの記憶)と「タンポポの頭部」(オリジナル)と訳してしまったら、似た響きの英単語で記憶が滑っていることが分からなくなってしまうので、「pool(プール)」と「poll(頭部)」という原語を残すことで対応した。(「プール」に似た響きの日本語でタンポポの花の部分を表すことができたら楽しいだろうけど、あるだろうか?)
言葉の取り違え以外にも、記憶が薄れているケースがままあって、そういうときには何がベイカーの記憶にしっかり残り、何が薄れているのかを把握して訳すように努めた。例えば、「そして、息をこらしてカミュを二十ページめくりながら、エアコンの送風口が髪にささやきかけるのを感じていた」(オリジナル)が「カミュを二十ページめくりながら、エアコンの送風口が髪にささやきかけるのを感じて、うんぬんかんぬん」(ベイカーの記憶)になっているところなど、英語原文が正確に一致している「エアコンの送風口が髪にささやきかける」という部分がベイカーの記憶に残っているのだと分かる。飛行機のエアコンの風が髪に当たることを「送風口が髪にささやきかける」と描いたアップダイクの表現が、ベイカーは気に入ったに違いない。
ベイカーの記憶に残っている言葉とアップダイク本人の原文が並べて書かれているとき、意味だけをそれぞれ正確に訳しても、その間の関係をつかまえ損ねてしまっては意味がない。やるべきは、英語原文における二つの関係を日本語訳文に再構成することだった。意味を訳していたというより、関係を訳していたのだと思う。UとIの関係こそが『U&I』の肝だからである。
今回紹介した本
▼ 有好宏文さん翻訳 ▼
▼ 原著 ▼
本文写真:David Werbrouck, Denys Argyriou from Unsplash