舞台芸術の通訳に求められる適性【通訳&翻訳 BEHIND THE SCENES⑦】

翻訳家で通訳者の平野暁人さんの連載『通訳&翻訳 BEHIND THE SCENES』では、舞台芸術の仕事を中心に通訳翻訳の世界を語ります。第7回は、舞台芸術の通訳者に向いているのはどんな人なのかお話しいただきます。

専門用語を学ぶ努力を続ける姿勢

こんにちは。翻訳家で通訳者の平野暁人です。前回は舞台芸術の通訳者には主にどんな経歴の人がいるのかについてお話ししましたが、今回は少し角度を変えて、この仕事に求められる適性について考えてみます。

「やっぱり舞台芸術に造詣の深い人物でないと務まらないのでしょうか」。そんなふうに尋ねられることがよくあります。専門性の高い分野というイメージが強いせいでしょう。前回の記事に書いたとおり、経験者や研究者出身の人に強みがあるのは確かですが、一口に舞台芸術と言っても演劇、ダンス、舞踏、インスタレーションをはじめ実に多種多様な形態があり、その全てに通暁(つうぎょう)していてかつ通訳がこなせるレベルの語学力を有している人物となるとそうそう見つからないはずです。

それに舞台の世界は職人の世界でもあり、演出、演技、美術、照明、音響、衣装などそれぞれに高度な専門性を誇る人々の間に立って通訳に当たるわけですから、どれだけ舞台芸術一般に関する知識があろうと、聞いたこともない道具や素材の名詞、説明されてもすぐには理解できないような技術や舞台機構のシステムに関する話が出てこない日はほとんどありません。そんなとき、知らない・分からないをはっきり言えずになんとなくで訳してしまうと、思いがけない大きな行き違いや、場合によっては物理的な事故に発展してしまうことさえあり得ます。

そうした事態を未然に防ぐために最も大切なのは、知らないことに対する感度の高さや知りたいという好奇心の強さ、知らないことを恥ずかしがらずに聞ける素直さ、知るための努力を怠らない勤勉さです。新しいことが出てきたらすかさずメモを取り、帰宅後に復習しながら清書し用語集にまとめて毎日更新する、といった地道な努力を厭(いと)わない姿勢こそ、元々の知識量よりもはるかに重要な適性と言えるでしょう。もちろん私自身、初めて劇場で仕事をしたときから現在に至るまで欠かさず続けています。

冷静な対応力

「ナマモノ」たる舞台芸術の現場ではいつどんな事態に見舞われるか分かりません。「仕込み(舞台設営のこと)」の日に機材が届かなかったり、予定されていなかったものが急きょ必要になったりといった準備段階のトラブルもさることながら、なんと言っても恐ろしいのは本番直前や本番中に勃発する事件。開演30分前に音響卓(音響設備のコントローラーのようなもの)の電源が一切入らなくなったり、本番中に字幕モニターが固まってしまったり、野外での公演中にゲリラ豪雨に見舞われ次々に機材が作動しなくなったり・・・フランス公演の本番中に俳優が卒倒し、救急車に同乗して救急外来で夜明かしした経験もあります。

どれほど危機的な状況に陥ろうと、現場が殺伐とした空気に包まれようと、誰よりも冷静に状況を見極め適切に立ち回れるよう努めなくてはなりません。とりわけ外国での公演時には現地の事情に通じている通訳者の意見や判断が頼られる局面も増えます。ピンチを楽しみながら乗り越えられるような胆力のある人は舞台芸術の世界で大いに活躍できるでしょう。

待機中も周囲に目配り

不測の事態と言えば、「待ち時間」もトラブルとは違う意味で予測不能な状況と言えるかもしれません。関わる作品や分野によっては待機時間が異様に長くなるのも舞台の通訳業務の特徴だからです。例えば仕込みの作業一つ取っても、国際共同製作の経験が豊富なスタッフで編成された精鋭チームであれば、図面を頼りに必要最小限の英語で意思の疎通を行いながら作業を進めてゆける頼もしい人たちも珍しくありません。

また、ダンサー同士などは母語こそ違っていても互いの体や呼吸で会話を成立させてしまったりします。一言二言交わすだけで通じ合い踊り合う人々の姿を目の当たりにすると、なんでもいちいち言葉で子細に説明する自分がとてつもなくやぼな人間のように感じられるくらいです。

とはいえ言語コミュニケーションが不可避な局面というものは唐突に訪れますから、ただぼんやり待っていればいいわけではなく、どこかでディスコミュニケーションが起きかけていないか、通訳者に視線をよこしている人はいないか絶えず目を配り「すみませーん!」の「すみ」くらいのところで「今行きます!」と言いながら駆け出しているくらいでなくてはなりません。「能動的に待つ」能力は現場仕事に不可欠です。

粘り強い人に向いている

最後に少し変わった話をすると「同じことを繰り返すのが苦にならない」というのも立派に適性のうちです。何しろ舞台の稽古は反復に次ぐ反復。長期間にわたり同じシーンを何十回も稽古し、同じ作品を最初から最後まで通して何十回も観ます。もとい、舞台は一回性の芸術ですから厳密に言えば「同じ」ではないのですが、「一つとして同じ瞬間はないのだ」という感性をもって洞察を深めてゆける人は意外に多くないもので、「飽きるから」「時間の無駄と感じてしまうから」二度と舞台の通訳はしたくない、という声も耳にしたことがあります。セリフを暗記してしまうくらいの集中力で稽古に臨み続けられる人は、それだけで創作の現場に向いていると言えます。

読者の皆さんもご自身の適性を診断してみてくださいね。次回は「舞台通訳の先輩・後輩関係」についてお話しする予定です。どうぞお楽しみに。

※本記事は『ENGLISH JOURNAL』2022年7月号に掲載した記事を再編集したものです。

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実際に起こった事件を題材にセネガル社会のタブーに切り込み、集団の正義のために暴力を行使する人間の根源的な愚かさと、社会から排斥されることへの潜在的な恐怖を克明に描いた衝撃作。

平野暁人(ひらの・あきひと)
平野暁人(ひらの・あきひと)

翻訳家(日仏伊)。戯曲から精神分析、ノンフィクションまで幅広く手掛ける他、舞台芸術専門の通訳者としても国内外の劇場に拠点を持ち活躍。主な訳書に『隣人ヒトラー』(岩波書店)、『「ひとりではいられない」症候群』(講談社)など。Twitter: @aki_traducteur

トップ写真:Aaron Burden from Unsplash

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