新連載「翻訳者のスキルアップ術」。通訳、翻訳家の丸山清志さんに、実務を通じて見たこと、感じたこと、さらに実践したことなどをリアルにお話しいただきます。第2回は、翻訳・通訳業界における「人」と「AI(機械翻訳)」について。AIが人に取って代わる時代は、いつやってくるのでしょうか。
目次
誰もが欲しかった「ひみつ道具」
「将来なくなる職業」という話になると、翻訳や通訳の名前が挙がることがしばしばあります。皆さんは、そんなことを聞いたことがありませんか?その可能性(期待)を高めているものの1つが、IT(情報技術)の発達、具体的にはAI(人工知能)や機械学習といった技術の進歩です。
翻訳・通訳アプリやAIが発達すれば、「人間の優秀な翻訳者や通訳の仕事を機械がもっと手軽にやってくれるようになり、外国人との言語障壁がなくなる」と期待している人も多いと思います。
青いネコ型ロボットが主人公の日本の国民的アニメで、食べるだけで誰でも外国語でコミュニケーションが取れるようになるという、ダジャレのような名前が付いた道具が登場していましたが、今でもその実現が待ち望まれています。私自身も幼少の頃からそのアニメの大ファンで、その道具の実現を夢見てきた1人ですが。
もしかしたら、「翻訳者や通訳は将来要らなくなる」というのは人々の願望かもしれません。費用の面からも、人材の希少性の観点からも、翻訳者や通訳は利用しづらいというのが現実で、そのために、機械による翻訳や通訳が待望視されているというのも否めないでしょう。
では、機械が翻訳や通訳を人間の代わりにやってくれ、翻訳や通訳を職業とする人間は不要になる時代が、いずれ本当にやって来るのでしょうか?今回はそこに焦点を当ててお話ししてみたいと思います。
「翻訳・通訳の仕事はなくならない」というのは本当か
翻訳者や通訳がいずれなくなる職業なのかどうかについては、多くの人がさまざまな意見を述べています。それを見る限りでは、「なくならない」という意見が圧倒的です。しかし、そういう意見を述べた投稿や論文を見ていて、気になる点が2つあります。
1つは、その意見のほとんどが翻訳・通訳の関係者、要するに業界の身内によるものである点。もう1つは、人間が翻訳や通訳の仕事を失わないのは「機械が人間の能力に追い付けないから」ということを根拠にしている点です。
前者については、業界人が自分たちの保身のために論じることはごく自然なことであり、多くなるのも無理はないかと思います。一方、他の一般の人々にとってみれば、翻訳や通訳が職業として存続しようがしまいがどうでもよい話で、論じている人が少なくても致し方ないことです。翻訳や通訳の仕事の将来性については、もっと幅広い人々の視点から論じないと、公正に判断することはできないでしょう。
一方で、機械が人間の能力に追い付けないから翻訳者・通訳という職業は存続していくという論拠については、ちょっと乱暴な気がしますし、私自身は少し異なる見解です。機械翻訳やAIの能力に関して、特に翻訳や通訳については私も確かに懐疑的で、多くの方々に近い意見です。しかし、本当に追い付くことはないのでしょうか?
翻訳・通訳の仕事の見落とされがちな側面
個人的に、AIが人間に匹敵する能力を身に付けることは、可能性としてはあると考えています。しかし、仮にAIが人間の能力を身に付けたとしても、私は人間の翻訳者や通訳が職を失うことはないと考えます。それは、翻訳・通訳の仕事には見落とされがちな、もう1つの側面があるからです。
実は、翻訳や通訳の仕事の本当の姿は、あまり多くの人に理解されていません。それは、翻訳者や通訳の同業者もそうなのですが、業界外の人であれば、ITの技術者も含めてなおさらでしょう。翻訳や通訳は、多くの人が思っているよりもずっと幅が広く、深い仕事です。
多くの人は、翻訳や通訳の仕事が、原文の言葉や表現を翻訳対象の言語に(できるだけ自然な形で)置き換える作業だと考えていると思います。
もちろんそうなのですが、それでは翻訳と通訳の仕事の半面しか議論できていません。翻訳・通訳の仕事には、他の面があるのです。そして、翻訳・通訳の将来を論じる上でそこが肝心です。その1つが、この連載の第1回目でも書きましたが、「納期や紙面などのさまざまな制約の中で、クライアント(発注者)の求める文章を書く」という面です。
実は、全てを正確に訳すということだけが、翻訳や通訳の現場での仕事ではありません。本質は「正確に訳す」というより「最善の選択をする」というもの。ここは、恐らく機械がとても苦手とするところだと思います。
また、翻訳や通訳の発注者自身が気付いていないことを発見して、成果物をどういうものにした方がよいかを提案をするなど、クリエイティブな面もあります。表現を人間的にするとか、単語の選択をコンテクストに合わせて最適化するといったことは、機械にもできるかもしれません。
しかし、例えば「原文ではマンゴーの事例が書かれているけれども、日本ではリンゴの方が身近で理解されやすいので差し替えましょう」とか、「いや、あえて異国感を出すためにそのままでいきましょう」とか、人間であれば時と場合、その人の裁量によって、状況に応じた修正や工夫を加えながら訳文を作り上げることもできます。
これは翻訳の仕事のほんの一部ですが、クライアントの要求やターゲット層、ご時世などさまざまなことを翻訳者や通訳が「察して」訳文を作っていくということがよくあり、翻訳や通訳の現場ではそれが求められます。つまり、翻訳や通訳の仕事には、ある言語から別の言語へ正確に置き換えるという機械的な作業の他に、別の言語圏や文化圏にいる人にもクライアントの意図したように伝わるようにするという、かなり人間的な部分も含まれているのです。
その判断は、原文を提供しているクライアントさえ気付いていないことにも及びます。そこを考慮した訳をしないと、それがたとえこなれた訳文であっても、ただの直訳になってしまい、満足していただける訳ができません。こなれていてすごく自然な文章なのに、クライアントに受け入れられないことは現場ではよくあることです。クライアントやターゲットにしてみれば、何か物足りないのです。そこのギャップを埋めるためのやりとりというものも、現場ではとても大事な仕事になります。
多くの人は、翻訳や通訳のこの人間的な部分を考慮に入れないため、技術が発達して人間の言語を完璧に再現できるようになれば、いずれ人間は要らなくなり、全て機械でできるようになるだろうと考えてしまいます。ちょっと分かりづらいかもしれませんが、こう考えればもう少し分かりやすいかもしれません。
技術が発達して、高級料亭の味を科学的に完璧に再現できるようになったとしても、高級料亭の味わいを自宅で体験することはできない。
翻訳や通訳の仕事は、外国語を自国語で完璧に(機械的に)再現することではなく、さまざまな情報を収集して状況を加味した上で、クライアントの希望通りの訳文を出し、意図をターゲットに効果的に伝えること。翻訳・通訳の仕事も、これからは「顧客体験」の時代なのです。
人間として必要とされる部分で活躍していく時代
「言語学的に正確に再現すること」と「効果的に伝えること」は、実は2つの別の要素であり、翻訳・通訳という仕事は、この2つの面の総合的な作業であると言えます。
機械やAIは前者の作業を得意とします。一方で後者の仕事は、翻訳が人間相手の仕事であることを考慮すれば、人間の方が得意でしょう。これを踏まえると、機械が翻訳や通訳を人間の代わりにやってくれ、翻訳や通訳を職業とする人間が不要になる時代は来ることはないでしょう。
ただし、人間の担当業務から外れていく部分はあります。それは機械でもできる部分です。実際には、翻訳や通訳の仕事の本質として、機械ではできない部分や機械が苦手とする部分があり、そこはいつまでたっても人間が担当していくことになります。人間の翻訳者・通訳は、仕事のこの側面に特化していき、精度が求められる部分や機械的な部分は機械を使っていくことになるでしょう。
こういう話をすると、「効果的に伝えるという人間的な部分まで、機械ができるようになったらどうするの?」と聞かれることがあります。そうなったら、もう人間対人間の競争と考えてもいいでしょう。機械がほぼ人間なら、もう人間同士の競争と同じわけで、競争の構造は今と何ら変わらないということです。結局、今後の翻訳・通訳業界はどうなるかというと、未熟な人は仕事を失う一方で、実力のある翻訳者・通訳にとっては仕事も機会も増えるとういことになります。
実は、レベルの低い人には仕事がなく、実力のある人に仕事が集まるという状況は、昔も今も変わっていません。ただ、今までは機械でもできる言葉の置き換えだけの仕事をする翻訳者にも、仕事が回ってきていたというだけの話です。ITの発達で、レベルの低い人たちの参入障壁が下がったということもあるでしょう。グローバル化の影響もあり、翻訳や通訳の仕事の件数は実際には増加傾向にあるともいわれています。
これからは、簡単な作業は機械が担当することになり、人間が担当する仕事はその部分を除いた大変な作業ばかりになるので、覚悟が必要かもしれません。機械でもできるような仕事は、人間の手には回ってこないということです。あるいは、機械でもできるような仕事を、単価の安い機械と取り合っていくかの選択になるのかもしれません。
いずれにしても、クライアントに喜ばれる質の高い仕事をするという意味では、翻訳・通訳の仕事が人間の手から離れていく、ということはないのかもしれません。それが人間を相手にする仕事である限りは。
本文画像:Gerd Altmann, Gerd Altmann from Pixabay
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