新連載「翻訳者のスキルアップ術」。通訳、翻訳家の丸山清志さんに、実務を通じて見たこと、感じたこと、さらに実践したことなどをリアルにお話しいただきます。第1回は、業界のプロが最も嫌う言葉の一つ「誤訳」について。誤訳が生じる原因は、翻訳者の英語力だけにあるわけではありません。
どんな翻訳者でも経験する恐怖
誤訳。
これは翻訳者が最も忌み嫌う恐怖のワード。この言葉を聞いただけで、ドキッとしてしまう人も多いのではないでしょうか。翻訳会社の担当者から「これは誤訳ではないですか?」などと指摘されようものなら、「まさか!」と青ざめ、慌ててその事実を否定する理由を探してしまうのです。
著名な翻訳者の字幕や、ベストセラーの文章にも、誤訳の指摘や批判が寄せられていたり、SNSで叩かれていたりするのもよく目にします。
そんなことを言っている私も、納品した翻訳のフィードバックが翻訳会社から来るたびに「誤訳の指摘じゃないだろうか?」とハラハラしますし、自分の翻訳した書籍のレビューに「誤訳」の書き込みがないか気になります。
申し遅れましたが、私はフリーランス翻訳者・通訳の丸山と申します。2005年に会社員を辞め、主に財務や法務、ビジネス関連の翻訳を行う傍ら、会議やテレビ番組の通訳をしています。
副業としてやっていた会社員時代を含めると、通算で22年余りこの仕事をしています。しかし、翻訳や通訳の学校に通ったわけでもなく、ほぼ独学で習得してきたスキルですので、試行錯誤の連続でした。
それでも、翻訳会社や出版社などの多くの人々に支えられ、ここまで何とかやってこれました。
私自身も翻訳をする一方で、他の翻訳者に仕事を依頼することや、他の方の翻訳のリライトやチェックをすることもあります。また、翻訳会社から受注するだけでなく、自分でも翻訳事務所を運営し、顧客から直接受注することもあります。そのため、翻訳業を全体的に見てきました。
これから6回にわたり書かせていただくことになりましたが、これまで翻訳者や通訳としてさまざまな経験をしてきた立場から、私自身の失敗談や成功談なども交えて翻訳や通訳という仕事の現実についてお話ししつつ、翻訳や通訳を上手に使う方法や、依頼するときの注意点、翻訳者を目指している方々の参考となるようなことがらもお伝えできればと思います。
なぜ誤訳は起きるのか?
冒頭でお話したとおり、翻訳者や通訳は「誤訳」という言葉に敏感です。
私自身、誤訳の指摘を受けたことは幾度とありますし、私の翻訳に対する批判の書き込みを頂いたこともあります。大きな失敗をして、取引先に違約金を払ったこともありました。22年間の翻訳者・通訳人生で、「誤訳」の恐怖から解放されたことはありません。
それは、誤訳が翻訳者・通訳としての自分の評価に直結し、職業生命を危険にさらすことになりかねないからです。良い実績が残せなければ、次の仕事の保証がありません。フリーランスの宿命です。
SNSでも誤訳の話題には多くの関心が寄せられます。書籍や字幕に誤訳が発覚しようものなら、かなりの批判が集まることもあります。批判は、同業者である翻訳者から集まることも少なくありません。
つまり、人々はそれだけ誤訳に対して敏感なのです。私自身も、誤訳はしたくありません。しかし、誤訳の可能性をゼロにするのは至難の業。特に現場にはさまざまな制約があり、そのせいで誤訳のリスクが非常に高くなります。
尚、ここからは便宜上、主に翻訳者に焦点を当ててお話をさせていただきますが、これを通訳に置き換えてもほぼ同じことが言えると思います。
そもそも誤訳とは?
「誤訳」には二つのタイプがあり、一つは原文を正しく理解できていなかったり、うっかり誤解したりして誤った訳をしてしまう場合。もう一つは、何らかの制約があり、原文の意図を翻訳に十分に表現しきれない場合です。
前者の誤訳をしてしまう翻訳者は、残念ながらプロのレベルにまだ達していません。大活躍している著名な翻訳者の中にも、このタイプの誤訳をする人は見られます。しかし、原文を完全に理解できない人に、仕事としての翻訳は無理です。添削してくれる人はいないのです。すべて自分の責任です。
今回はそのタイプの誤訳はさておき、後者の誤訳についてです。つまり、何らかの制約があり、原文の意図を翻訳に十分に表現しきれない場合です。これが、ベテラン翻訳者でも誤訳をしてしまう要因となっているのです(それを「誤訳」と言ってしまっていいのか分かりませんが)。
現場にはさまざまな制約があります。たとえば紙面(文字数)の制約、時間的な制約(締め切りまで時間がない)、原文の問題(誤字脱字、意味不明など)といったものです。
少々言い訳がましくなるかもしれませんが、雑誌や新聞、パンフレットやホームページ、映像の字幕など、翻訳で扱うほぼ全てにおいて、紙面の制約があります。当然、外国語と日本語では、同じ面積を使って書ける容量も違います。
作業時間も無制限ではありません。時間をかけて調べたり読み返したりすれば、誤訳を排除することが可能かもしれません。しかし、現場の翻訳者は締め切りに追われながら作業をしています。
だからと言って誤訳が許されるというわけではありませんが、この時間的な制約がかなりのプレッシャーになることは確かです。
私は最近、eスポーツの世界大会のインタビュー映像に日本語字幕を付ける仕事を担当していますが、「映像が手元に届いてから2時間以内に字幕の和訳を付けて返す」という制約があります。
分からないところがあっても、誰かに確認する時間などありません。英語のネイティブではない話者が英語で話しているために、意味不明なときもあります。それでも時間内に訳します。公開時刻に間に合わせるのです。
もちろん、できる限り確認はしますし、複数人によるチェック体制もあります。それでも公開後にミスが見つかり、視聴者から指摘されてしまうこともあります。「もっと時間があれば良い訳ができるのに・・・」と悔しい思いをしたこと数知らず。
また、英語では単語5つで済むところを、普通に和訳すれば20文字になったり、スペイン語では1語で済むものを日本語では何文字も使わないと表現できなかったりすることもあります。
翻訳者は常に悩ましい選択を強いられる
今担当している仕事では、「1行13文字、1画面2行まで」という制約があります。これは、視聴者が字幕を読むスピードなどの関係から徹底されるのですが、そもそもリズムや速度の違う言語同士の翻訳ですから、同じ文字数で同じ内容を表現できるはずはありません。
仮に「アレクサンドラ」という人名が出てきてしまうと、それだけで1行(13文字)の54%を取られてしまいます。英語ではたった3音節のところ、日本語では7文字も使うのです。
文字数や発話時間の制約から、話者では5秒で5つのことを言っているのに、翻訳では3つのことしか伝えられないということはよくあります。そんなとき、翻訳者はどの2つの要素を切り捨てるかという選択を迫られるのです。
このような選択は、翻訳の仕事の難しさが現れているほんの一部に過ぎませんが、翻訳者は常にこのような悩ましい選択を迫られたり、そこをうまく表現できるように工夫をしたりすることが求められます。
そんなとき、賭けのような一手を打ってみることもあります。通常、その決断は数秒から数分で下さなければなりません。その選択が裏目に出てしまうこともありますし、気付いたときには時既に遅しということもあります。選択が吉と出るか凶と出るかは翻訳者の経験や実力次第というわけです。
つまり、必ずしも原文を理解できていないというわけではないのです(言い訳ではなく)。瞬時の選択や判断を誤ってしまうのです。それは通訳も同じです。瞬時の選択や判断をすること、それが翻訳者や通訳の仕事と言ってもよいかもしれません。
翻訳の最大の難所は、原文を正しく理解することというよりは、その理解を自分の言語で正しく表現することなのです。
さまざまな制約の中で戦う翻訳者たち
プロの翻訳者の仕事とは・・・誤解を恐れずに言うと、外国語を一字一句、漏れなく正しく日本語に転記する作業ではなく、「納期や紙面などのさまざまな制約の中で、顧客(発注者)の求める文章を書く」作業と言えると思います。
もちろん、誤訳は絶対に駄目ですが、誰の視点からも申し分のない素晴らしい翻訳を目指しつつも、現実的にはそれは非常に難しいことであり、今、自分にできる最善の翻訳を納められるように締め切りぎりぎりまで努力をし尽くすというのが、私がこれまで現場で感じてきた翻訳の仕事というものです。
そして、現場で日々、悪戦苦闘している翻訳者の多くが、このジレンマといいますか、良心の呵責(かしゃく)にも似たようなものと向き合いながら、今日も仕事をしているのではないかと思います。
本文写真:Trid IndiafromPixabay
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