舞台芸術の世界で起こるハラスメント【通訳&翻訳 BEHIND THE SCENES⑨】

翻訳家で通訳者の平野暁人さんが、舞台芸術の仕事を中心に通訳翻訳の世界を語る連載『通訳&翻訳 BEHIND THE SCENES』。近年は、ハラスメントを深刻な問題として捉え、実効力のある抑止策を講じようという動きが舞台の世界でも本格化してきていると話す平野暁人さん。友人知人やご自身の経験を基に、舞台芸術の現場で起き得る通訳者へのハラスメントについて語っていただきます。

通訳者が受ける精神的負担

こんにちは。翻訳家で通訳者の平野暁人です。舞台、特に小劇場がお好きな方ならご存じかもしれませんが、ここ最近、ハラスメントを深刻な問題として捉え、実効力のある抑止策を講じようという動きが舞台の世界でもようやく本格化してきました。そこで今回は、舞台芸術の通訳者とハラスメントについて考えてみます。

「ハラスメント」という概念は、外来語のまま定着している事実からも分かるとおり、日本語で簡潔に言い表すのが難しく、分類も多岐にわたります。本稿では代表的な2種類に関する以下の厚生労働省の定義を念頭に話を進めます。

  1. パワーハラスメント:職場において行われる①優越的な関係を背景とした言動であって、②業務上必要かつ相当な範囲を超えたものにより、③労働者の就業環境が害されるものであり、①から③までの三つの要素を全て満たすもの

  2. 職場セクシュアルハラスメント:「職場」において行われる「労働者」の意に反する「性的な言動」により、労働者が労働条件について不利益を受けたり、就業環境が害されたりすること

参考:厚生労働省 ハラスメントの定義 https://www.no-harassment.mhlw.go.jp/foundation/definition/about

まず、稽古場の中で起き得るハラスメントとして真っ先に挙げられるのは「乱暴に扱われること」。最近は随分減りましたが、俳優やスタッフにうまく演出意図が伝わらずいら立った演出家から「違う!そうじゃない!」と怒鳴られたり、「ちゃんと訳してるのか!?」と詰め寄られたりといった経験のある通訳者は少なくないと思います。もちろん通訳者の技術に至らぬ点があれば指摘されてしかるべきですが、適切な指摘も不適切な手段で行われればハラスメントになり得ます。業務に関する技術や態度について改善を要請することと、人前でなじったりおとしめたりして辱めることとは違うのだ、という認識が必要です。

また、日本側と海外アーティスト側が「通訳者を介して罵り合う」というパターンもあります。この場合、罵られているのは通訳者本人ではありませんが、過度に攻撃的なやりとりを訳し続けていると通訳者の精神にも非常な負荷がかかるもの。まして罵詈雑言(ばりぞうごん)を丸ごと訳すわけにはいかないので、己の心身を通してろ過する羽目になります。そうして少しずつ澱(おり)が溜(た)まってゆくのですが、通訳している当人はなんとか修羅場を収めようと必死になるあまり、自分にかかっている負荷の大きさを自覚しづらいというのも難点です。

さらに、「性的、差別的な表現を通訳させられること」も時に問題となり得ます。作品の中で性的な主題を扱ったり、差別の問題に踏み込んだりするのは不謹慎でも有害でもありませんが、極端にわいせつな表現や、本来の意図から外れた差別的な物言いを通訳させられれば苦痛を伴います。通訳者はどんなことでも好き勝手に訳させていい機械ではありません。可能な限り品位を保って健やかに働くべく、発話者に対しても配慮を求める権利があります。

通訳者の待遇に関する課題

翻って稽古場の「外」では、労働条件、特に報酬に関することが主たるハラスメント要因となります。以下に私や私の友人知人が実際に経験した被害を幾つか挙げてみます。

  • 突発的な取材の通訳や関連資料の翻訳など、事前の合意が存在しなかった業務をなし崩し的に依頼 された上、追加の報酬が支払われない

  • 業務終了後、「想定していたほどの通訳業務が発生しなかったから」という理由で、事前に合意していた報酬額を一方的に減らされる

  • 業務終了後、数カ月が経過しても報酬が支払われない。遅延理由についての説明もなされない

  • パンフレットや公サイトなど広報媒体に通訳者の名前だけクレジットされていない

上記の例はどれも暴言や物理的な暴力を伴っているわけではありませんが、劇場や劇団が組織であるのに対して通訳者はいち個人事業主に過ぎず、しかも企画ごとに短期で請け負うだけの不安定な契約形態ですから、依頼する側が優位であることは否定できません。従ってその優位性を背景に理不尽な要求をしたり、合意を反故(ほご)にしたりといった振る舞いは、パワーハラスメントに該当すると考えられます。

また、ここまで読んで「業務委託契約書はどうなっているの?」と疑問に思われた方もあるかもしれません。実は、とりわけ小劇場の世界では(一部の公共劇場を除き)、事前に契約書を取り交わすという手続きが必ずしも順守されているとは限りません。そもそも業務の依頼自体もエージェントへの発注ではなく「〇〇さんからの紹介」のような形が多く、人間関係に多くを依拠した業界の体質自体がビジネスとしてのけじめのなさを生んでしまっている面は否めないでしょう。創作への理想と情熱を共有しつつ、作品に関わる全ての労働者を尊重しながら働けるよう職業倫理を高めることが、私を含め舞台芸術の世界で活動するあらゆる人々の課題であると考えています。

今回はやむを得ず重い内容となりましたが、次回はもっと楽しい話をします。どうぞお楽しみに。

平野暁人(ひらの・あきひと)
平野暁人(ひらの・あきひと)

翻訳家(日仏伊)。戯曲から精神分析、ノンフィクションまで幅広く手掛ける他、舞台芸術専門の通訳者としても国内外の劇場に拠点を持ち活躍。主な訳書に『隣人ヒトラー』(岩波書店)、『「ひとりではいられない」症候群』(講談社)など。Twitter: @aki_traducteur

※本記事は『ENGLISH JOURNAL』2022年9月号に掲載した記事を再編集したものです。

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平野暁人さんの翻訳本

31歳にして世界三大文学賞の一つ、ゴンクール賞を受賞したセネガル人作家、初邦訳作品!

「この国で、生きていても死んでいても居場所がないのは、同性愛者だけ」

実際に起こった事件を題材にセネガル社会のタブーに切り込み、集団の正義のために暴力を行使する人間の根源的な愚かさと、社会から排斥されることへの潜在的な恐怖を克明に描いた衝撃作。

トップ写真: Marco Bianchetti from Unsplash

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