
アンちゃんことクレシーニ・アンさん(言語学者・北九州市立大学准教授)が、「多様性」を軸に自身の経験や考えをつづります。2023年に念願の日本国籍を取得したアンちゃん。いくつもの書類を求められる手続きの実態や、アンちゃんの決断を尊重、そして応援した人たちとの関わりについて見ていきましょう。
目次
日本国籍を取ると決めた理由
ヤッホー!アメリカ系日本人のアンちゃんです。
そう!私はアメリカ生まれ、アメリカ育ちの日本人だよ。49歳の時、念願の日本国籍を取得した。一方、私の夫と子どもはアメリカ国籍のままです。私には、日本人の血は一滴たりとも流れていない。日本語がたまに変で、お寿司はそんなに好きじゃない。そして漫画とアニメには全く興味がない。けど、私はバリバリの日本人です。
「アンちゃん、なんで日本人になったの?」
「なんで永住資格では満足しなかったの?」
「なんでわざわざ子どもと違う国籍を取得しようと思ったの?」
こうした「なんで?」は、とても答えにくい質問です。人には、それぞれの「歩みたい人生」がある。別に「なんで?」に必ずしも答えなくていいと思うし、答えたくてもなかなか答えられない時がある。自分でもよく分からない時があるんだ。
国籍取得の「メリット」も考えなくていいと思っている。メリットに焦点を当てるなら、多くの人が欲するアメリカ国籍を持っていた私が、日本の国籍を取得するメリットはなかったとも言える。
では、なんで?
それは「なんとしてでも日本人になりたかったから」としか言いようがない。すごくドラマックに聞こえるかもしれないけれど、日本人になることは私の心の叫びだった。
日本人は私のアイデンティティー、私のファミリー
もちろん、これまでの記事の中で話した「安心感」も理由の一つだ。2014年に取得した永住資格は、あくまで日本にいる「許可」。国籍を取得したら、日本にいる「権利」を得る。戦争があっても、コロナみたいなパンデミックが再び起きても、ずっと私にとっての居場所である日本に戻ることができる。
そして何より、私のハートが、私のアイデンティティーが日本人になってきているから日本国籍を取得しようと思った。日本は、私の国。日本人は、私のファミリーだ。「アメリカにもう一度住みたい」とは全然思わない。むしろ、母国アメリカがどんどん“外国”になっている気がする。
今回話すのは、日本国籍を取得しようと決めたきっかけ、そして、その申請の長いプロセスについて。アメリカ系日本人である私の話が、皆さんにとって「多様性の架け橋」になれたら、それは何よりも嬉しいことです。もし、今までの記事をまだ読んでいなかったら、ぜひさかのぼって読んでみてね。
◆ これまでの「多様性の懸け橋」一覧 ◆
この連載も終わりに近づいてきている。だけど、われわれ人間の多様性を理解する旅は一生終わらないと思う。アンちゃんと一緒にこの旅を歩んでもらえば嬉しいです。
さて、今回の旅に出発しよう!
母の反応を考えると不安だった
2022年9月、父の葬儀のため私は3年ぶりにアメリカに戻った。そして滞在中に、日本国籍を取得すると決心した。日本に帰国後、夫と娘たちにそのことを伝えた。私は自立している大人だから、許可を得ようとしたわけではない。私が自分で決めたことを尊重してくれると思ったからだ。
夫と娘はそれぞれ、「いいよ、自分の人生だからさ」、「自分の夢を追いかけるママはかっこいい!」と言ってくれた。アメリカで暮らす兄弟に言ったら、「別にいいんじゃない?けど、早くお母さんに伝えてね」とアドバイスしてくれた。
日本は二重国籍を認めていないので、日本人になったら、アメリカ国籍を放棄しなければならない。母は、どう反応するかな。不安でいっぱいだった。
ところが、母の言葉は――「あれ?まだ日本人になってなかったの?」。アメリカ国籍を放棄しなければいけないことを説明しても、何も反対しなかった。というか、かなり無関心(笑)。「晩ご飯、マックを食べていい?」と聞いたのと同じ感じだった。
愛しているからこそ手放す
日本と違い、アメリカはかなり個人の意思を優先する文化だ。もちろん、家族の決めたことに反対する場合もあるものの、最終的には本人の決定を尊重することが多いと思う。
私が24歳の時、母は私の日本行きに反対したけれど、最後は「自分の人生だし、あなたはきっと気が変わらないだろうから、行ってらっしゃい!」みたいな感じだった。もちろん、母親が娘と離れるというのは寂しいことだ。それでも自分の道の進むよう私を育ててきたから、「行ってらっしゃい」と言うしかなかったのだろう。
日本国籍取得までの期間にZoomで話すたび、母は「いつアメリカに帰ってくる?」と寂しそうに聞いてきた。帰ってこないだろうと分かってはいても、可能性が1%であっても、母の中には希望があるんだろうなと感じた。
そして国籍を取得して以降は、それを聞かなくなったことに気づく。母は、私を愛しているからこそ、大好きな娘を手放してくれたんだ。

尊重してくれた大切な母親。
○○証明書に○○届・・・とにかく書類、書類
家族への相談が終わり、私は福岡在住の行政書士さんに相談した。1人でも申請はできるが、その手続きはとんでもなく大変である。正しくできるか不安を抱き、その人に頼むことにした。
国籍取得の申請をすると決めたのが2022年の秋で、実際に申請できたのは翌2023年4月。なぜそんなにも時間が空いたのかというと、提出書類を集めるのにめっちゃ時間がかかったから。
まず、福岡にあるアメリカ領事館へ「国籍証明書」を取りに行かなければならない。領事に「どうして国籍証明書が必要か」を聞かれた時は、言うまでもなく気まずかった。「えーと、日本国籍を取得しようと思っているんですけど・・・」――自分の夫に「今から浮気をしようと思っているけど大丈夫ですか?」と言うみたいな感覚やった(笑)。
一番時間がかかったのは、アメリカ側の手続きだ。戸籍を作るために私の出生証明証、兄弟の出生証明証、自分の婚姻届、両親の婚姻届、父親の死亡届などの原本が必要だった。当然どれも残っているはずはなく、再発行を頼まなければならなかった。
夫よ、「変なこと言わないで」
日本側へ必要な提出書類も山ほどあった。確定申告の控え、課税証明証、在職証明証、自宅の写真など。正確に数えてはいないが、合計で100枚以上もの書類が必要だったような気がする。申請は4月に無事終わったものの、その後、追加でいくつかまた別の書類を取るように言われた。全ての書類には日本語訳が必要だった。
その後、9月には夫と2人で面接に臨んだ。彼自身に日本国籍を取得する意思はないが、私の申請を応援している事実を確認する必要があったようだ。聞き取りは別々に行われるため、夫には「変なことを言わないでくれ!」と頼んでおいた。
私の面接では、提出した書類について担当者と一緒に細かく確認する作業を行った。例えば、父のミドルネームはMarvinなんだけど、それをカタカナで書くと「マービン」になるのか、それとも「マーヴィン」になるのか、という具合。戸籍に掲載されるので、間違いがないこと、カタカナの書き方が統一していることを確かめないといけないのだ。
がんに負けず愛と笑顔に満ちた友達
その年の10月末は、学会発表のためにアメリカへ。出発前には法務局の担当者に、日本を出国する事情を伝える必要があった。日本にいない10日間、国籍取得の申請は休止となるからだ。
そして日本に帰国した直後、法務局から電話が来て「1カ月以内に結果が出る」と告げられた。
きゃー!マジで!?それからというもの、私は電話が鳴るたびにドキドキしていた。
生まれ育ちも価値観も違う、でも最強の仲良し
そうした中で、11月21日は、末期がんと闘っていた友達・妙盛(みょうせい)さんを見舞った日だった。その朝、共通の知人から連絡があり、「彼女はあと数日間しかもたない状況だから、できるだけ早く来た方がいい」と知らされた。その日はたまたま授業の振替日で空いていて、私は親友のまき子と一緒に行くことにした。
私にとって妙盛さんはとても貴重な友達。彼女は40代でがんになった後、お坊さんになることを決意。仏さまと周りの人に奉仕することによって、最強の「生きる意味」を見つけた。
キリスト教徒の私と、お坊さんである妙盛さん。2人でよく宗教とお互いの死生観について話した。そして、英語が大好きな妙盛さんは、寺の資料を英語に訳す仕事も行っていたため、たびたび私に相談してきた。
価値観、死生観、生まれ、育ち、言語などは大きく違っていても、私たちは最強の仲良しだった。もしかしたら、妙盛さんとの友情の中に多様性のヒントがあるのかもしれない。排他的な人が増えている世界の中で、妙盛さんという人は愛と寛容そのものだった。言葉に表すことができないくらい、彼女の生き方を尊敬している。
見舞ったその時点で、妙盛さんはあまり話せないほど衰弱していた。私は彼女のそばで「大好きだよ」「大丈夫だよ」としか言えなくて、そして、それよりふさわしい言葉はなかった。
手を握って彼女に伝えた最後の言葉
話しているうちに電話が来た。法務局からだ。電話に応じるため私は廊下に出た。
「国籍取得の許可が下りました」
長い間、待ちに待った言葉。あまりにも興奮し過ぎた私は、思わず「ええっ!?日本人になったってこと?」と聞き返していた。
「うん、そうだよ。あなたは日本人になったんです」
日本人になった。アンちゃんは日本人になった。信じられない。私は妙盛さんの部屋に戻り、彼女の手を握って告げた。
「妙盛さん!日本人になったよ!日本人になった!」
妙盛さんの目が輝いていた。「よかった、アンちゃん!よかった!」と小さい声で言ってくれた。一緒にいた親友のマキコは泣き出した。
これまで私を愛し、力の限り日本国籍取得の申請を応援してくれた2人と、この貴重な瞬間を一緒に迎えられたことを一生忘れない。
その2日後、妙盛さんは息を引き取った。とても悲しかったけれど、最後に過ごせた時間に感謝している。忠実に生きて、愛と同情にあふれていた妙盛さん。長年がんと闘っていたのに、痛みと絶望感に負けず、旅立つ最期の時まで笑顔で過ごした妙盛さん。
私の友達でいてくれて本当にありがとう。一生忘れないよ。そして、アンちゃんは立派な日本人になるよ。

「日本人になる旅」から「日本人としての旅」へ
さまざまな人たちのおかげで、アンちゃんの「日本人になる旅」は無事に終わった。私自身の意思を尊重してくれた家族。不安を抱える私を安心させてくれた行政書士の村上さん。ずっとそばにいてくれた大親友のマキコ。応援メッセージを毎日送ってくれたファンや読者の人たち。

読者の人たちに届けていたアンちゃん。
人間は一人きりでは生きていけない。いろんな人からのサポートがあったからこそ、今の私がある。100回、いや1000回「ありがとう!」と言っても足りない気がする。
日本人になる旅は終わったけれど、日本人としての旅は始まったばかりです。その旅を一緒に歩んでいく仲間も山ほどいるから、感謝の気持ちに満ちあふれている。
しかし、私が日本人になったことを全ての人が喜んでいたわけではない。
次回は、私が受けた地獄のような誹謗中傷について話します。いつものように「お楽しみに」とはなかなか言いづらいけれど、つらい時にも学びがあるから、ぜひ次回の記事も読んでね!
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