言語学者のアンちゃんことクレシーニ・アンさんが「多様性」を軸に、さまざまな思いや経験をつづる連載。大学の海外研修のため、一家全員で1年間アメリカに暮らしていたアンちゃんたち。子どもたちにとって貴重な経験になったと同時に、それは帰国後の試練にもつながっていました。一体どういうことなのでしょうか?
目次
英語のあいさつ、何がいい!?
ヤッホー!アメリカ系日本人のアンちゃんです!
最近、「ヤッホー」は私の合言葉になってきている。いつから使い出したかよく覚えていないけど、なんか、好き。英語の Hey! What’s up? みたいな表現だからすごく好きだ。もちろん、会社の面接の時には使ったら駄目だけど、すごく親しみを感じる言葉だと思う。大学の教室に入ると、必ず学生に向けて「ヤッホー」とあいさつする。そうすると、教室はすぐ温かい雰囲気になる。
日本語のあいさつは多彩だ。「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」「お疲れ様です」などなど。英語を教えている私は、教室に入る時、「英語では何と言ったら一番いいか」とずっと迷っていた。1時限目と2時限目の授業なら Good Morning! がちょうどいいい。でも、3時限目以降はいつも問題になる。だって、英語で Good afternoon. とかGood evening. はほとんど使わないから。Hello. も Hi! もなんとなく不自然だ。
「じゃあ、アメリカの先生たちは何と言って教室に入っているだろう?」と考え始めた。Hey, how’s everybody doing?、Hey y’all. Everybody good? とかかな。きっと、こういうカジュアルなあいさつを使っている人が多いだろう。学生たちと仲良くなりたい私にとって「ヤッホー」はこれに近い感じです。
「お世話になります」が英語に訳せない
あいさつを通して、文化の違いが結構見えてくると思う。日本は「礼儀」や「上下関係」を大事にしているから、それを表す決まり文句が多い。一方、英語圏では日本ほどそういうことは大事にされていない。だから「よろしくお願いします」「お疲れ様でした」「お世話になります」などは、英語になかなか訳しにくい・・・。
ある日、久しぶりに英語でメールを書いた時のこと。書き出すまでの10分間、私はずっとパソコンのスクリーンを見ていた。というのも、日本語のビジネスメールはたいてい「お世話になります」で始まるけれど、英語ではメールをどう始めたらいいか、よく分からなかったから。きっと「ヤッホー」ではないよね・・・(笑)。
この連載では、アメリカで暮らした25年間、そして日本で暮らしてきた25年間のエピソードについて語りながら、さまざまな文化や価値観の違いについて皆さんと一緒に考えていきたい。アメリカと日本のどちらにも素晴らしい所があり、また、改善されるべき所もあると思う。違いを認め合うことや他者を見習うことは「多様性」の中心であると思う。もし、私の経験が多様性へつながるヒントになれば、それは何より嬉しいことです。
前回の記事では、アンちゃんファミリーがアメリカで過ごした1年間の気付きについて話した。もしまだ読んでいなければ、ぜひチェックしてください。
◆ これまでの「多様性の懸け橋」を読む ◆
今回は、アメリカから帰って来た後の試練について話していくね。さて、アンちゃんと多様性の旅に出発しよう!
充実したアメリカ生活での英語と日本語
大学の海外研修のため、家族でアメリカで暮らした期間は2014年夏から翌2015年夏までの1年間。私は、姉妹校であるアメリカの大学で、日本文化についての授業を担当することになった。
滞在した1年間、子どもたち3人(当時、上から小学3年、1年、保育園の年長)は現地の小学校に通っていた。アメリカについてほとんど知らないアメリカ国籍〔*1〕の娘たちにとって、大冒険の日々だった。スクールバスに乗ったり、微妙な学校給食を食べたりと、充実した毎日を送っていた。
- 〔*1:編集部注〕日本の国籍法では「父母両系血統主義」が採用されており、日本国籍を持つ父親もしくは母親の子として生まれた子に日本国籍が与えられます。お子さんたちの出産時、アンちゃんとアンちゃんの夫のどちらもアメリカ国籍であり、お子さんたちはアメリカ国籍となります。
参照:日本で生まれた外国人の子どもの国籍|日本国籍が与えられる?(弁護士JP)、出生による米国籍の取得(在日米国大使館と領事館)
英語ができると日本語を忘れ・・・
母として一番喜ばしかったのが、3人の英語力の上達だ。アメリカに行く以前から英会話はできていたものの、語彙力はあまり高くなく、英文の読み書きも同学年の子どもたちと同様にできていなかった。それが1年後には、3人ともかなり上手になっていたのだ。
日本語も忘れないようにと、アメリカへ出発する前にはたくさんの漢字ドリルや本を買っておいた。「3人とも日本語話者だし母国語は忘れないだろう」と思いつつも、念のため、「アメリカでちょっと日本語をブラッシュアップした方がいいかな」と考えたからだ。
買ったからにはドリルをさせたり本を読ませたりするつもりだったのが――いざ実生活が始まると、時間の余裕がない。英語力が十分でない時期は学校の宿題に時間がかかったし、一緒に暮らしていた祖父や、現地で新しくできた友達とたくさん一緒に過ごしてほしかった。
同じ町には日本人家族がいたので、日本語を少し話す機会みたいなものはたまにあったけれど、英語が上達していくのと同じペースで日本語を忘れていく。長女に関しては日本人の友達と勉強していたおかげで少しキープできていたが、下の2人は完全に忘れてしまっていた。末っ子は自分の名前さえ日本語で言えなくなった。それでも、「まあ日本に戻った後でなんとかできるだろう」と思いながら、アメリカでの残りの日々を楽しむことに決めたのだった。
娘たちそれぞれの試練
そして、2015年の夏に日本に帰国。長女は小学4年、次女が2年に上がり、末っ子の三女は――もう一度、年長になった。(というのも、アメリカでは年長は kindergarten という学年にあたり、その kindergarten は小学校に併設されているので、三女もアメリカでは「小学校に1年間通って」いた。それが、日本に戻ったらまた半年間、保育園に通わないといけなかったのだ。)
のんびり明るい三女
子どもたちは笑えるくらい日本語を話せなくなっていた。一番やばかったのは末っ子だ。とはいえ、明るい性格でのんびりしている子なので「なんとかなる!」という感じでもあった。
帰国してすぐ、保育園のお泊まり保育〔*2〕という行事があった際、保育士の先生たちは不安で仕方がない様子だった。先生は心配して「もしかしたら参加しない方がいいかも・・・」と言ったけれど、当の娘に聞いてみたら「いや、行きたい!なんとかなる!」との返事。そして予想通り、先生とクラスメイトたちの言っていることは全くわからなかったものの、「楽しかった!」とニコニコしながらお泊まり保育の内容について話してくれた。
三女はその後、数カ月弱で普通に日本語を話せるようになった。母語である日本語がどこかで眠っていたみたいだ。「子どもはすごいな」と思ったし、言語の力を持っているのはうらやまし過ぎる。私たち大人が言語を取得するためにめっちゃ苦しまないといけないのに対して、子どもときたら、遊びながら吸収してしまうのだから。
- 〔*2:編集部注〕「お泊まり保育」:保育園や幼稚園に通う子どもたちが自宅を離れ、園内や施設に宿泊する行事。園の友達や担任の先生たちと共に過ごす。
頑張り屋さんの次女
小2の次女は大丈夫そうだった。少しずつ話せるようになり、小学校の宿題も普通にできた。国語のノートに書かれている字もきれいだ。よしっ!大丈夫だろう!
ただし、次女のノートを思い出すと浮かんでくるのが「思い込みというのは危ないなあ」という気持ち。ある日、必死な様子で国語のノートに何か書いている娘を見て、私は「ねえ、何をやっているの?何を書いているの?」と尋ねた。返ってきたのは、「知らん。写してるだけだよ」。
は?ちょっと待って・・・。「意味は分からないの?」と聞くと、「うん、ずっと分かってないよ。写しているだけ」と何でもないような顔で返事をする。めっちゃショックだった。その後、勉強の内容を理解するようになるまでかなり時間はかかったけれど、頑張り屋さんの次女は今、問題なく日本の高校に通っている。
恥ずかしがり屋の長女
一番問題になったのは長女だった。長女に関しては日本語を完全には忘れていなかったから、「またすぐに日本の学校生活に馴染むことができるだろう」と考えていた。しかし、日本の教育から1年間離れたことは、私が想像した以上に大きな悪影響を娘に与えていた。あれから10年経ったでもよく覚えている。
長女は私と違い、めっちゃ内向的です。何よりも目立ちたくないと考え、「薄い存在感」を目指している。帰国後、彼女は普通に日本語が話せたし、友達とも遊んでいたから「この子は大丈夫やろう」と感じた。5年生になるとすぐに反抗期が始まったものの、「まあ、反抗期も普通に起きるものだし順調だ!」とさえ思っていた。
そして、他の子たちと同じように小学校を卒業し、中学校に入学。問題が発覚したのは、初めての中間テストの時だ。テストが返却されて結果を見たら、数学の点数は4点。「まさか100満点のテストじゃないよね?」と思ったけれど、そのまさかだった。100満点中の4点・・・。長女に「どうしたん?」と聞けば、小4の夏に帰国してから、全く勉強が分からなくなっていたことが判明したのだった。
どうして娘は言わなかったんだろう?なんで、私も学校も気付かなかったんだろう?――罪悪感が半端なかった。
生じたギャップに苦しんでいた
娘が日本語を話せたことで「勉強も大丈夫だろう」と、私も夫も先生も思い込んでいたのかもしれない。けれど、「会話する」ことと「教育を受ける」ことは全く違う。日本語の文章を理解できないと、国語だけでなく全ての教科に影響が及ぶ。数学の文章問題を解くことができないし、歴史も理解できない、理科の実験にもついていけない。恥ずかしがり屋の長女は、なかなか助けを求めることができなかったんだ。
それ以降ずっと、娘は勉強に苦しんでいる。「勉強が嫌い」「勉強が苦手」「頭が悪い」――。ある日、「ママ、暇だよ」と言う彼女に「本を読んだら?」と勧めたら、「死んだ方がマシ!」と返ってきた。
「勉強大好き」な私からどうやって「吐くほど勉強嫌い」な娘が生まれるんやろう、と不思議で仕方がなかった時もある。だけど、子どもは親とは全然違う人間だし、長女は元々、勉強が嫌いなわけではなかった。アメリカに行くまで、長女は割と勉強好きで、そしてできる方だったと記憶している。けれど、帰国してからはずっと勉強が嫌い。
そうなったのを、アメリカに行ったせいにはしたくない。なぜなら、長女と同じ経験をした次女も三女も、今は全く問題がないから。ただ、小学3年と4年が日本での教育において大切な期間ということは痛感した。数多くの漢字を習得するタイミングだ。その1年間に生じたギャップは、追い付こうとしてもなかなか埋めることができない、と娘はどこかで諦めた。「どうせ無理」「勉強しても分からない」「どうしようもない」「やっぱり頭が悪い」などと、とてもネガティブな思考になってしまった。
どんな瞬間も子どものために
アメリカでの経験や思い出を振り返って、私も子どもたち自身も「行ってよかった!」と思っている。3人ともほとんど経験したことがなかったアメリカを楽しむことができて、英語も普通に話せるようになった。
その一方で、日本での教育においては想像以上に影響が大きかった。アメリカへ行ったことは後悔していないが、帰国後にもうちょっと娘たちをフォローすべきだったと、いまだに反省している。
わが子に国際的な経験をさせることは貴重だ。多文化や多言語に接することによって、本当に心の広い人間になると思う。と同時に、マイナスなことも起きると考える必要があるだろう。私のように「まだ子どもだから大丈夫。なんとかなる!」と考える人は多いかもしれない。確かに、なんとかなる子もきっといるけれど、ならない子だっている。一人ひとりの成長や精神状態によく気を配らなければいけない。私は、それがちゃんとできていなかったことを後悔している。
もしかしたら、子育てより難しいことはないのかもしれない。われわれ親は、子どものためにいろいろ一生懸命やっているはずだけど、なぜかうまくいかないことが多い。予想した通りにいかない時だってある。それでも、諦めてしまいたくなっても、「諦めることだけは駄目だ」と毎日、毎日踏ん張る。どんなに大変でも、自分を、そして子どもを信じることが、一番大事なことだと思うから。
次回は、最愛の娘との10年間の苦難と、それを克服した話をするね!お楽しみに!
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