生まれて初めての「失敗」、そして転機となった「親友」との出会い【多様性の懸け橋 (2) 】

アメリカ出身で、昨年待望の日本国籍を取得した、言語学者のアンちゃんことクレシーニ・アンさんの連載第2回。今回は、アンちゃんが大きく落ち込んだ人生初の「失敗」について、そして、その後の人生を変える女性との出会いについて一緒にたどっていきましょう!

「○○系日本人」が増えていく未来

ヤッホー!アメリカ系日本人のアンちゃんです!

この連載では、昨年、念願の日本国籍を取得して、日本人になるまでの25年に及ぶ「旅」にあった気づき、失敗、悲しみ、幸せなどについて書いている。人生の最後まで私は成長していきたいから、きっとこれからも、たくさんの新しい気づきが私にやって来るだろう。

現在、341万人の外国人が住民として日本で暮らしている〔*1〕。「すごく多い!」と感じるかもしれないけれど、これは日本の総人口のわずか3%だ〔*2〕。つまり、日本の住民の97%は日本人だということ。

〔*1〕第1回記事 参照。
〔*2〕2024年6月1日現在、日本の総人口は1億2389万人。
参照:総務省統計局 2024年6月20日公表の人口推計データ(概算値)。

一方、私の母国アメリカは移民の国です。「○○系アメリカ人」という言い方も普通にするから全然珍しくない。中国系アメリカ人、メキシコ系アメリカ人などなど・・・。

私の夫も、8歳のときにフィリピンからアメリカに移住して、27歳のときにアメリカ国籍を取得した。やけん、日本人と話しているとき、彼はよく「僕はフィリピン系アメリカ人だ」と言う。そして、相手は混乱した表情で、「ということは、あなたはフィリピン人なんだよね?」と返事をする。アメリカと日本、どちらの社会でも長く暮らしてきた私にとっては、これが結構面白い

前回の記事 では、日本国籍を取得した後で受けた誹謗中傷について少し触れた。日本の血が一滴たりとも流れていない私を、どうしても「日本人」として認めたくない人はたくさんいる。でも、それでいいと思う。他人に認められるために日本国籍を取得したわけじゃないからさ。

自分は胸を張って、「私は日本人だ!」と死ぬまで言い続けるつもりだけど、アンチと揉めていたくはないから、「じゃ、私はアメリカ系日本人だ!」と言い始めたのだ。そしたら、SNSで「いや、そんな日本語が存在するわけないだろう!勝手に日本を作らないでくれ」と言われた。

うーん。日本人は毎日のように、想像力あふれる新語を作っているけん、「アメリカ系日本人」だっていいんじゃない?と思う。ただ、私のように日本国籍を取得した人がそれほど多くはないから、当然、移民王国アメリカとは異なり、「○○系●●人」という表現も一般的ではないんだろう。

けれど、少子高齢化が進む中、きっと私みたいな日本人はどんどん増えていくと思う。近いうちに、「アメリカ系日本人」「ウクライナ系日本人」「ベトナム系日本人」といった言葉が誕生するだろう。日本への観光客、住民として日本で暮らす外国人、そして、「残りの人生を日本人として生きていきたい」という人が、これからますます増えるに違いない。

出入国在留管理庁のデータによると、2023年末時点で日本に暮らす外国人の数は341万人。前年比10.9%増で過去最高を更新した。

「われわれ日本人が、この新しい現実にどう向き合うのか」は、最も大事な話題だと思う。そして、多様性や多文化共生についてはどう考えたらいいのか。この連載でずっとこのテーマについて話していきたいと思う。

前回の記事 も、まだの方はぜひ読んでみてね。さて、第2回の今日は、アメリカに暮らしている間、日本に恋した話をします。

では、始めよう!

母国に戻ったら・・・自信喪失

1997年に初めて日本に来て、2000年に神戸から出したとき、私はもう二度と日本には戻らないと思っていた。

日本での生活はスタートこそめっちゃ大変だったけれど、終わりは幸せだった。日常会話程度の日本語を話せるようになったし、仲の良い友達もたくさんできた。神戸にいた3年間は貴重な経験で、それでも、あくまで大学を卒業した後の「冒険」として捉えていた。日本にずっと住むという考えは頭の中になかった。

2000年7月末、夫と2人で日本に別れを告げ、私たちはヨーロッパへ3カ月間のバックパック旅に出発。めちゃくちゃ楽しいことがあった中でも、一番は多分、日本人のバックパッカーに出会ったときだ。なんだか、日本語を聞いたら落ち着いたんだ。ヨーロッパのどこに行っても日本人の若者がいたから、ずっと日本語を話すことができた。

しかし、残念なことに、北アイルランドで私は食中毒になってしまい、しばらく入院した後、アメリカに帰らなければいけなくなった。

仕事もお金もないに等しかった私たちは、バージニア州に住んでいた祖母の家にしばらく居候をすることに。子どもの頃からずっとバリ仲の良かったおばあちゃんと一緒に住むことができたのは夢みたいやったなあ。おばあちゃんはおいしいご飯を作ってくれる、私たちは草刈りや家の掃除をするという、ウィンウィンの関係だった。

でも、それを除くと、なかなか新生活になじめていなかった。友達があまりいない、仕事もなかなか見つからない。まさに、神戸に引っ越したとき全く同じだ。こうした現象は「逆カルチャーショック」と呼ばれている。つまり、海外に一定期間住んだ後で母国に戻った際、まるで外国のように感じたり、違和感を抱いたりするということ。

「アメリカ人は声が大きいなあ」「私のことをわかってない」、そんな風に思う日々がしばらく続いた。

何よりの悩みは仕事だった。職を求めて、夫と2人で、自動車保険のコールセンターの面接に行った。大卒で3年間海外に住んでもいたけん、「きっとこの仕事は大丈夫やろう!」と思い込んでいたら――なんと不採用。大ショックやった。さらに、夫だけが合格。

振り返ると、その経験が人生で初めての「失敗」と言えるかもしれない。(「挫折」という表現も当てはまるかも)

なぜなら、子どもの頃は何をやってもうまくいったから。スポーツが得意で、成績もバッチリ。所属していたバスケのチームは州の大会で優勝したし、行きたい大学にだって簡単に入ることができた。失敗するとか、思い通りにいかないという事態に直面することがなかったから、面接の失敗は新しい経験だった。

結局、フルタイムの仕事を諦め、祖母の家の近くにあるイタリアンカフェでアルバイトすることに。プライドはかなり傷付いていた。失敗した自分をダメな人間なのだと思い、自信を喪失した。

けれど、この経験のおかげで、奇跡的な出会いに恵まれた。

人生を変えるきっかけをくれた「さやかちゃん」

私が毎週、祖母と一緒に通っていた教会の礼拝。そこで出会ったのが、沖縄から来た交換留学生のさやかちゃんだ。さやかちゃんは当時16歳。彼女のホストファミリーが同じ教会に通っていたことで出会い、毎週たくさん話すことができて、私たちはすぐに仲良くなった。

当時はバイトしかしていなかったから、ほぼ毎日、さやかちゃんの学校終わりに迎えに行き、そして2人で一緒に日本語と英語を勉強した。私には、小さい子どもよりも、彼女くらいの年齢の子に英語を教えるほうが合っていたようだ。めちゃくちゃ楽しくて、やりがいがあった。

そして、すぐに決意する――英語を第2言語として学ぶ人に、英語を教える資格を取りたい。私は祖母の家の近くにある大学院に入り、応用言語学を学ぶことにした。

さやかちゃんと過ごした期間はわずか1年と短かったけれど、毎日いろんな所へ出かけたし、沖縄出身の彼女とはもちろん、ずっと一緒にKiroroの音楽を聴いていた〔*3〕。彼女との出会いがあったからこそ大学院進学を決心し、日本愛も深まった。そうして、「いつか日本に戻りたい」と、少しずつ思うようになっていった。

〔*3〕アンちゃんは沖縄出身の女性デュオKiroroの大ファン。詳しくは 第1回記事 参照。

アンちゃんが一番大好きな曲は「長い間」。ぜひお聴きください!

進学後は、大学の語学センターで仕事が見つかった。その内容というのが、短期留学生の面倒を見ること。なんてすてきな仕事やろう!留学生たちと一緒にボーリングに行ったり、パーティーを開いたりと、めっちゃ楽しかったとです。

日本人の留学生にもたくさん会うことができたんやけど、彼らと長い時間一緒にいるから、なんとも不思議なことに、日本よりもアメリカにいたこの期間の方が日本語が上手になった。ウケるやろ?

もう一度、日本での冒険が始まる!

大学院は2002年の冬に卒業。できるだけ早く日本に戻りたい気持ちだったものの、笑えるくらいお金がなかった。日本への渡航費用どころか、日々食べていくためのお金さえ微妙だったくらいだ。

でも、ふとしたきっかけで事態は好転する。

私が語学センターでバイトをしている間、大学の姉妹校だった北九州市立大学からも多くの学生が留学生としてやって来た。親しくなった彼らの中で、とある人が「英語教員の職に空きがある」と教えてくれたのだ。

とてもじゃないけれど日本に行って面接を受けるお金なんてない。・・・が、電話面接ができた。そして、バリ嬉しいことにその面接に合格!

よしっ!!!日本での2回目の冒険が始まるぞー!

契約期間は5年。その5年が過ぎたら、日本からまたアメリカに戻るつもりでいた――わけだけど、もう皆さんもお分かりのように、人生って、いつも自分が思うようにいかないよね?(詳しくは、今後の記事の中でいずれ書きます)

失敗のおかげで夢が叶い、成長が続く

今回、最後に読者の皆さんに伝えたいのは、「失敗は悪いことじゃない!」ということです。失敗のおかげで学びにつながることや、人生が意外な方向に進んだり拓けたりすることもある。

もし、最初に自動車保険のコールセンターの面接に受かっていたら、私の人生はどうなっていたんやろう?まず、さやかちゃんに出会わなかっただろうし、大学院に入学することもなかったやろうな。

あれから20年以上が過ぎた今、「あの面接に落ちたから、日本人になれた」と言っても過言じゃないと思っている。だから皆さんも、物事がうまくいかなかったり、失敗が続いたりしたときには、「アンちゃんは失敗を経験したおかげで、夢だった日本人になれたんだ」と思い出してね!

その後も私は、仕事においても子育てにおいても、数え切れないほど失敗をした。だけど、その全てに感謝している。一つ一つの失敗のおかげで、私の成長は今も止まっていないから。

今回はここまでです。さて、次回は“大学講師・アンちゃん”の最初の1年間について話すよー!


クレシーニ・アン
クレシーニ・アン

アメリカ・バージニア州生まれの日本の言語学者(海外語学研修・言語学)。学位は応用言語学修士(オールド・ドミニオン大学・2002年)。北九州市立大学基盤教育センターひびきの分室准教授。和製英語と外来語について研究している。作家、コラムニスト、ブロガー、コメンテーター、YouTuber、むなかた応援大使、3人の娘を持つ母。(写真:リズ・クレシーニ)

●ブログ:「アンちゃんから見るニッポン
●Instagram:@annechan521
●X:@annecrescini

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