言語学者のアンちゃんことクレシーニ・アンさんが、日本国籍を取得するまでのさまざまな出来事や思いを綴る連載第3回。日本が自分の居場所だと確信しているアンちゃんですが、母国を離れて暮らすにはある「覚悟」が必要だと言います。そして今回は、おなじみのニックネーム「アンちゃん」の誕生秘話も明らかに・・・!
目次
日本は私の「居場所」
ヤッホー!福岡在住、アメリカ系日本人のアンちゃんです!
私は今年の5月に50歳になった。25年間アメリカに住み、日本にも25年間住んでいる。人生の半分をアメリカ、もう半分を日本で暮らしたから、それぞれの良いところと悪いところがはっきり見えてきた気がする。
もちろん、「完璧」な国はない。自分に「合う」国、そして、自分の「居場所」と言える国に住むことで、最も充実した人生を送れると思う。私には日本の好きなところがたくさんあり、そうじゃないところもある。良いと感じるところが山ほどあると同時に、変わってほしいところもある。だけど、良くも悪くも、日本は私の「居場所」だ。
今、多くの人が直面している問題――それが、「自分の国が良いところかどうか分からない」ということ。外国に行ったことがない、外国の文化に触れたことがない人は、自国の全てを当たり前に思ってしまいがち。日本の医療保険制度は優れているのか。教育制度や食文化、働く環境はどうか。他の国々と比較してみないことには、自国の良い点・悪い点はわからないと思う。
海外に行く本当の目的
一例として、医療保険制度について考えてみよう。
「皆さんは、日本の医療保険制度に感謝した経験がありますか?」――この質問を学生たちにしてみたところ、ほとんどの人が「ない」と答えた。これを言い換えるなら、「その制度が良いか悪いかを考えたことがない」ということだろう。
私はというと、この国の医療保険制度は「日本で暮らしたい理由」のトップ5に入っている。なぜって?それは、「アメリカの医療費がどれだけ高いか知っているから」。
数年前、アメリカ滞在中に私は尿路結石を患ってしまった。旅行保険には加入していたものの、ひとまず現地で医療費を全額払う必要があった(後日、保険金として戻ってくる形)。
まず、救急センターでの診察と採血で請求されたのが10万円。次の日、専門医の先生にCTスキャンを勧められたのだが、30万円もかかると言う。しかも、病院いわく「現金なら70%の割引が適用」されてその金額!!日本だったら、保険適用外だとしても、恐らく6万円を超えないくらいじゃないだろうか。
アメリカは、保険料も医療費も信じられないほど高い。日本の制度は、もちろん課題はあるけれど非常に公平だ。そして、日本ではアメリカのように「病気で破産する」ということがない。
私が日本の医療保険制度に深く感謝しているのは、アメリカの制度をよく知っているから。つまり、2つの国の制度を比較したからこそ、日本の制度の素晴らしさが分かった。日本しか知らない場合は、今の私のように感謝することは難しいだろう。
多くの人は「多文化を知るため」に海外に行くのかもしれないが、私にとって海外に行く最大のメリットは、「自分の国、そして自分について知ることができる」という点なのだ。
2度目の「旅」は北九州へ
さて、アンちゃんの「日本人になる旅」に戻ろう!今回で連載3回目です。第1回、第2回 がまだの人は、ぜひそちらも読んでみてね。それでは、今回の旅に出発!
2002年冬、私はバージニア州にあるオールド・ドミニオン大学(以下、ODU)の応用言語学修士課程を修了。約1年半、バイトをしながら大学院に通っていた。その間、たくさんの日本人留学生と仲良くなったおかげで日本語は上達し、日本への愛情も深まった。
翌2003年3月にはアメリカを離れ、福岡県北部にある北九州市へ向かった。大学院の姉妹校である北九州市立大学(以下、北九大)に採用され、語学教師として英語を教えることになったからだ。ただし、専任の教員になったわけではなく、1年ごとに最大5回まで更新できる契約だった。5年間日本に住んだ後はアメリカに戻るつもりでいた。
一方、私の夫はしばらくアメリカに残ることに。家を片付ける必要があったし、私の弟が1カ月後の4月に結婚予定だったので、夫には披露宴に出席してもらうことに決まったからだ。
弟の高校そして大学の卒業式に関して、私は日本に暮らしていた時期だったため出席できなかった。だからこそ「絶対に結婚式は行くよ!」と約束していたのだけど、残念なことにそれも叶わなかった。(弟本人はもちろん事情を理解してくれたよ)
「家族の大事なイベントに参加できなくなる」という現実は、海外で暮らす人にとって大きな悩みの一つだと思う。その気持ちについてちょっと書かせてね。
悲劇!私のピーナツバターが・・・
日本に住み始めると、アメリカの「もの」が恋しくてたまらんようになった。ナチョチーズ味のドリトス。アメリカのデオドラント。タコベル。そして、何よりもピーナツバターが恋しかった。来日してしばらくの間は、母が頻繁にピーナツバターを送ってくれたなあ。
どれくらいピーナツバターが好きか、どう説明すればいいんだろう。難しい・・・。とにかく「毎日食べないと幸せじゃない」みたいな感じ。日本にも「ピーナツクリーム」などが売られているが、あまりにも甘すぎてガッカリ。近くにコストコがあったおかげで「スキッピー」というブランドのピーナツバターは買えたものの、一番好きなブランドは手に入らなかった。
だからアメリカに行くたび、「ピーナツバター巡り」に出かけたものだ。いろんなスーパーマーケットに行き、違うブランドの商品をたくさん買う。そしてスーツケースに詰め込んで日本に持っていく。そんな風にして恋しさを乗り越えていたある日、空港の保安検査でピーナツバターが引っかかってしまった!
ピーナツバターは「クリーム」扱いだそうで、飛行機の中に持っていける量が限られているという。そのため、私の大事な大事なピーナツバターは捨てられることに・・・。あれはとんでもない悲劇やったな・・・。
母国の「ひと」を思う恋しさと覚悟
それでも、長く日本に住めば住むほど、アメリカのものを欲する気持ちはどんどん小さくなっていく。もう15年くらいは「アメリカのものを送ってほしい」と母に頼んでもいない。それに、どうしても何かが欲しくなったら、ネットで注文したりコストコで買ったりすることができる。でも、それもほとんどしていない。ピーナツバターでさえ、今はなくても全然平気だ。
ただ、アメリカのタコベルは死ぬまでに絶対食べたいな。とりあえず今は、仕事で東京に行くたび、渋谷のタコベルでおいしいチキンブリトーをいただいてるバイ!
日本の生活になじんで溶け込み、物欲は小さくなった一方で、「ひと」に会えなくなるつらさは変わらない。もちろん、ZoomやSkypeのおかげで、いつでも愛する人の顔を見ることはできる。だけど、大事な瞬間に、どうしても隣にいてあげられないことがある。
私は弟とめっちゃ仲が良い。ただ、先ほども書いたように、日本で暮らしていたことによって、彼の大切なライフイベントの全てに参加できなかった。さらに、祖母にさよならを言えず、大好きな父の葬儀にも行けなかった(このつらい経験について、詳しくは今後の記事で書くね)。海外在住の方たちはきっと、このつらさが分かるんじゃないだろうか。
海外で暮らすと決めたならば、結婚式・葬儀・赤ちゃんの誕生といった大きな行事や節目の瞬間に、母国の家族・親戚と一緒にいられないことを覚悟する必要があると思う。私の3人の娘にはいとこがたくさんいるものの、ほとんど一緒に過ごしたことがないし、彼女たちは大好きなおばあちゃん(私の母)にもう6年間も会っていない。
日本に住むことによって、失ったものはたくさんある。だけど、得るもの・得たものの方がはるかに多いから、ずっと住み続けることに決めたんだ。
また脱線して申し訳ない!
心強いホストファミリー・冨山一家
北九州に着いてからしばらくの間、私はアメリカで知り合った日本人家族の家でホームステイをしていた。その当時はまだ在留カードが未完成で、住まい探しには時間がかかるから、友達である彼らの存在がすごくありがたかった。
姉妹校である北九大とODUには、北九大から毎年1人、交換教員としてODUに派遣される制度がある。私がODUの大学院生だったときに、その交換教員だったのが冨山先生だった。一緒にいた時間は短かったけれど、冨山家とはすごく仲良くなった。一緒にホームパーティーをしたり、色んなところに出かけて行ったり。
冨山家には当時、たけちゃん(4歳)とだいちゃん(2歳)という小さな子どもが2人いて、私はよく彼らのベビーシッターをしていた。ある日、だいちゃんの行儀が悪くて叱ったところ――「アンちゃん、きらい!」。拗ねただいちゃんは、小さな声でかわいらしくそう繰り返した。
これが、「アンちゃん」というあだ名が生まれた瞬間だ。それ以来、周りの人たちからも「アンちゃん」と呼ばれるようになった。あの頃の行儀が悪かっただいちゃん、マジでありがとうね。
冨山家と過ごしたのはおよそ2カ月間と短かったが、本当に感謝している。彼らのおかげで北九州での生活にちょっとずつなじんでいけたし、あれから20年以上たった現在も、彼らは私と仲良くしてくれている。たけちゃんとだいちゃんは今や立派な社会人。冨山家に出会えたおかげで、やっと日本語の「ご縁」の意味も分かってきた。このご縁に感謝!
記念すべき初授業!その成果は?
そして2003年4月、いよいよ授業開始。大学院でも実習などでよく教えた経験はある。とはいえ、やっぱり仕事となると全然違うんだろうな。当時、私は27歳。20歳前後の大学生ともそこまで年齢は離れていないから、仲良くなれることを楽しみにしていた。
しかし・・・。
初めての授業はまるで地獄。楽しいゲームや課題など、たくさん準備をしたからきっと盛り上がるだろうと思っていたら、嬉しそうにゲームをしているのは私だけ。学生の顔を見たら――無表情やった。質問をしても、シーン・・・。
The silence is deafening.
沈黙はバリうるさい。
- deafening:(騒音などが)耳をつんざくような
英語で上記のような表現があるんだけど、まさにそんな感じだった。ODU時代の実習で生徒たちが多国籍のクラスは担当したことがあるものの、日本人だけというのは初めて。
やばい。日本人って話さないんだ!なんで話してくれんの?このゲームはバリ楽しいのに。私はこの世で一番下手な先生だ。やっぱり5年は長いな。――そんな風に考え、逃げたい気持ちでいっぱいになってしまった。
そして、あの日から22年という月日が過ぎ、「逃げなくてよかった」と心から思う。私は今、毎日学生たちと楽しく授業を行っている。日本人の学習スタイルと国民性(もちろん、みんな同じではないけれど)を把握しているから、彼らが反応しやすい課題やゲームを取り入れるようになった。
仮に、いきなり「はい、誰か答えてください!」「誰かボランティアとして手伝って!」と言ったとしても、学生は誰も手を上げないだろう。なぜなら、彼らは目立ちたくないから。グループワークやグループディスカッションは、教員にとっても救いだ。
人生を変えてくれた「ご縁」に感謝
北九大での1年目の日々は、すごく貴重な経験となった。教員としてたくさんの学びがあったし、素敵な出会いにもたくさん恵まれた。これまで、「日本人になる旅」において、人生を変えるような出会いが数多くあった。そうした「ご縁」に感謝しかない。
前回 はアメリカで出会った留学生・さやかちゃんについて書き、今回は日本で私を住まわせてくれたホストファミリー・冨山家について書いた。
そして次回は、私の日本語を上達させてくれた素敵な人を紹介したいと思う。この“日本語の達人”は、日本語学校で出会ったわけでもなく、教員免許を持っている人でもない。にもかかわらず、私はこの人のおかげで、念願の日本語能力試験1級に合格することができたのだ。
詳しい話は次回にするけん、ぜひお楽しみに!
オススメのアンちゃん書籍・連載
アンちゃんが英語&英会話のポイントを語る1冊
upset(アプセット)って「心配」なの?それとも「怒ってる」の?「さすが」「思いやり」「迷惑」って英語でなんて言うの?などなど。四半世紀を日本で過ごす、日本と日本語が大好きな言語学者アン・クレシーニさんが、英語ネイティブとして、また日本語研究者として、言わずにいられない日本人の英語の惜しいポイントを、自分自身の体験談・失敗談をまじえながら楽しく解説します!