アイデンティティーに悩み苦しんだ長女との10年間、そして新たな夢に向かう娘がくれた最高の言葉【多様性の懸け橋 (11)】

アメリカ出身で、2023年に念願の日本国籍を取得した言語学者のアンちゃんことクレシーニ・アンさんの連載第11回。今回は、アンちゃんの長女が「多様性」のはざまで悩み、親子でたくさん悩んで、そして乗り越えたストーリーをたっぷりつづります。

「アイデンティティー」ってよく聞くけど・・・

ヤッホー!アメリカ系日本人のアンちゃんです!

私が日本国籍を取得したのは2023年11月だけど、それよりもずいぶん前から日本人になりつつあった。数年前の冬、夫と娘たちが「クリスマスの飾り付けをしたい!」と言い出したのに対し、私は「クリスマスツリーを出すのが面倒くさいなあ。早くお正月が来てほしい!」と思っていた。それで「ああ、もしかしたら日本人になっているのかも!」と感じ、それ以降も徐々に、日本人のアイデンティティーが濃くなり続けている。

皆さんは、「アイデンティティー」という言葉の意味をどう捉えていますか?よく耳にするものの、「アイデンティティーって一体何?」と思っている人は意外とたくさんいるんじゃないかな。私はいろいろな所で「多様性」についての講演会を行っていて、アイデンティティーについて話す際には、「アイデンティティーの意味がよく分からん人、手を上げてください!」と問いかけるようにしている。すると、たいてい半分以上の人が手を上げるのだ。

そうして思い至ったのは、「少数派になった経験のない人は、あまりアイデンティティーについて考えたことがないのかもしれない」ということ。対して、日本に住む外国人、障害のある人やLGBT/LGBTQ+の人、強い個性を持つ人は、自分のアイデンティティーについて考えることが多いんじゃないだろうか。

この連載のテーマは「多様性の懸け橋」。私は、一人ひとりが多様性を理解することによって、日本はより生きやすい社会になると思っている。そういう社会になることは何よりも嬉しいことだ。

この第11回の記事では、私の長女が抱えていた悩みを軸に、アイデンティティーという大切なテーマについて話したいと思う。さあ、今日もアンちゃんと共に多様性の旅に出発しよう!


長い「10年間の旅路」が始まる

前々回は、日本生まれ・日本育ちのわが娘たちが過ごしたアメリカでの1年間について、そして前回は、帰国後の試練について書いた。アメリカで子どもたちの英語は上達し、たくさんの貴重な経験もした。ただ、日本を1年間離れたことによる教育のギャップは、想像した以上に大きな影響となったのだった。

3人とも、帰国した後の学校での苦労はあったけれど、末っ子は性格がのんびりしている。日本語が分からなくても「まあいっか!なんとかなるさ!」みたいに考える前向きな子だから、日本の学校生活にすぐ溶け込んだ。

次女はとんでもなく神経質で頑張り屋さん。最初は大変やったけど、死ぬほど勉強を頑張ったおかげですぐクラスメイトにキャッチアップした。ちなみに現在高2で、この間の学力テストでは国語で学年1位だった。こういう時、私はアメリカ人らしく「I am so freaking proud of you!!(もうめっちゃ誇りに思うよ!!)」と叫びたくなる。娘に直接この言葉を100回言うだけでは飽き足らず、SNSでも親バカ投稿をしまくっていた。


自信を失い「どうせ無理」と諦めた長女

そして、長女は一番長く、深く悩んでいた。幼い頃は特に問題のなかった長女。ところが、帰国後は自己肯定感がめっちゃ低くなり、反抗期に突入した。今振り返ってみると、反抗期は悩みを隠す彼女なりの方法だったのかもしれない。いずれにせよ、アメリカから帰国~つい3カ月ほど前までの10年間ずっと、私たち親子にとっては途方もなく大変な時間となった。

幼い頃の長女とアンちゃん。
アンちゃんの髪型が今とはかなり違います!

まず、中学校に入った途端、成績がめっちゃ悪くなる。でも、この試練を乗り越えよう!というやる気は全くなくて、「まあ、バイリンガルやけん仕方がない。私はバカだ。どうせ無理」みたいなネガティブ思考が激しかった。いくら「いや、そんなことないよ、頑張ればできる!ママは信じているよ」と言っても聞く耳を持たない。成績はどんどん悪くなる一方だった。

学生時代には勉強がまあまあ好きだった長女が、中学生になって勉強が死ぬほど嫌いに。本を読むことも嫌になり、ちっとも勉強を楽しいと思えなかったようだ。ある日、「本を読んだら?」と勧めてみたら、「死んだ方がマシ!」と返ってきたほど。

勉強が分からなければ、当然楽しいとも思えない。誰だってそうだよね?人は、できないことを楽しいとは思えないもの。そして、娘は「勉強ができない自分」が大嫌いだった。「できない」「どうせ無理」――諦めている感が半端なかった。


部活動で「できること」が見つかって

唯一の救いは部活だった。彼女は音楽が大好き。そして、すごく才能がある。小さい時からドラムとピアノを習っていて、どちらも天才的。ヒューマン・ビートボックス(声・唇・舌などを使って、ドラムなどの楽器音を作り出すこと)もできるし、作曲・作詞もできて、親の私にはない音楽の才能を本当にたくさん持っている。吹奏楽部に入り、テナーサックスを吹くようになった。そこでも、ドラムとピアノと同様に才能を発揮。部活動で自分にできることを見つけたのは、娘にとってとても大切な経験だったと思う。

でも、時が経ち高校受験を控え、娘はクラスメイトと同じように部活を引退し、大嫌いな勉強に集中しなければいけなくなった。いくつかの塾に行かせたものの合わなかったので、家庭教師に頼むことに。それも大変だった。勉強しなかったりいろいろ忘れたりで、しょっちゅう先生と相談していたものだ。

娘が受験すると決めたのは、博多にある私立高校。本当は家から近い高校に行ってほしかったが、本人が「どうしてもこの学校がいい」と言う。そして、嬉しいことに希望通り入学が叶った。「無事に高校生になったことで少しは落ち着くかな」と期待していたが・・・残念ながらそうはならなかったです。


コロナ禍で突然「学校に行きたくない」

1年生として、しばらくは普通に学校に通えていた。友達ができて、成績も悪くない。なんとかなるかもしれない――そう思った私たちを襲ったのは「コロナ禍」だった。日本全国、いや、世界中の生徒の多くがそうだったように、わが娘もコロナの影響にめっちゃやられた。オンライン授業についていけなくなり、勉強が面白くないから必然的に成績は下がってしまう。対面授業はあったりなかったりだった。

そんなある日、朝起きて突然「学校に行きたくない!行かない!」と娘が言い出したのだ。

そうして、不登校とはいかないまでも休みがちになった。休み過ぎると留年してしまうから、永遠に担任の先生とやりとりを続けていた。娘に「お願い、学校に行って!留年になるよ!」と言い続ける毎日。学校に行きたくないという娘を何回も車で送った。


長女が望んだのは「薄い存在感」

当時の私は、自分の子育てに全く自信がなかった。そして、娘のことを全く理解できていなかった。「あなたの唯一の仕事は学校に行くことです!ママは山ほど仕事や家事をやっているのに、なんでそれだけのことができないの?」と娘に言った記憶がある。勉強大好きな私は、吐くほど勉強嫌いな娘のことを理解できなかったのだ。今も、自分から勉強嫌いな娘が生まれたことは不思議で仕方がない。

私にとって、勉強と学校は何より好きで、そして楽しいもの。だけど、長女にとっては勉強は苦痛でしかない。そして、学校は地獄だった。その原因は勉強だけではない。

私の娘たちは日本語が流暢で、学校でいじめられたことはない。とはいえ、顔立ちや身長、肌の色は周りと違うから、福岡県の田舎ではもちろん目立つ。下の2人は母親と同じ「別に目立ってもかまわない」と考えるタイプの一方で、長女の思いは「何よりも目立ちたくない。何よりも『薄い存在感』が欲しい」。だけど、その「薄い存在感」こそがなかなか手に入らなかった。


アイデンティティーに悩む日々

高校に入ると「日本語が上手ですね」「国語の成績が悪くても大丈夫だよ、外国人なんだから」というようなことを時々言われたそうだ。先生に「アメリカ人は朝食に何を食べるの?」と聞かれたことも嫌だったという。もちろん、クラスメイトたちや先生に悪気があったわけではない。むしろ、外国や外国人に興味があっただけなんだと思う。

ただ、長女は自分を「外国人」だと思っていないから、注目されたくなかった。朝は多くの日本人と同じように白いご飯と味噌汁を食べる。日本で生まれたから当然日本語を話せる。国語の成績が悪かった理由は、「勉強していないから」に他ならない。「外国人だから」ということは全く関係していない。

そんな風に、高校で長女は自分のアイデンティティーについて悩みまくっていたのだ。


「Who am I?」という苦しみ

「アイデンティティー」は、心理学者のエリク・H・エリクソンが提唱した概念で、定義を端的に言うならば、「私は何者なのか?」になるだろう。英語だと「Who Am I?」。基本的に、アイデンティティーは自分にしか決められないものだ。

長女は高校時代、この「Who Am I?」が分からなくなっていた。国籍、血筋、見た目はアメリカ人でも、心、育ち、言語に関しては日本人だ。周りのクラスメイトと同じ日本人としての扱いを何よりも望みながら、日本人と外国人との間にある「高い壁」をずっと乗り越えられずにいた。

それは学校だけでなく、外へ出かけること自体も「嫌い」へとつながっていく。外出して電車に乗ったりしたら、「人に見られるから嫌だ」。私が「ドンマイ、ドンマイ!あなたがきれいだからみんな見ているんだよ」と励まそうとしても、「ママ、あなたは目立ちたいやろう?私は目立ちたくない。ママと私は違うから!」と言われてしまった。

また失敗だ。ずっと自分の思いや価値観を長女に押し付けようとしていた私は、改めて反省した。


「サードカルチャーキッズ」の悩み

身長170cmの彼女は、クラスメイトたちより背が高い。肌の色は白い。下の名前はカタカナでみんなより長い。心は日本人であっても、出かけると当然周囲から目を向けられる――何よりも見られることが嫌いな長女が、人から見られてしまう。

ある日、「ママとパパは日本が好きだから日本にいる。けど、私たちは日本に住むかどうかという選択肢がなかった。ママとパパも日本人じゃないのに、なんで私たちは日本にいるの?」と娘に問われた。確かに、私は自分で日本を選んだけれど、娘たちはそうじゃない。

両親が生まれた国の文化圏の外で長年過ごした子どものことを指す、「サードカルチャーキッズ(Third Culture Kids)」〔*1〕という言葉がある。私と夫(どちらも生まれ育った文化圏はアメリカ)の子どもたちや、海外駐在員の子どもなどがこれにあたる。こうした子どもたちは、日本人の子どもやハーフの子どもとはまた違う悩みがある。

それでも、たとえ悩みや試練に直面しても、いつかはそうした国際的な育ちを強みにできると期待していた。娘たちはアメリカの子どもが考えられないような経験をたくさんしているし、自然にバイリンガルになった。外国で育つというのは確かに大変なことだが、たくさんいいこともあるのだと、どうしても気付いてほしいと思っていた。

〔*1:参照〕サードカルチャーキッズ(Third Culture Kids)
・『新版 サードカルチャーキッズ 国際移動する子どもたち
・旧版『サードカルチャーキッズ 多文化の間で生きる子どもたち
パルキッズ通信:サードカルチャーキッズとは


たくさん泣いて、そして長女は進み始めた

だけど、当時の娘は高1だ。その日が来るのはまだまだ遠かった。

結局、1年生の終わり頃に、不登校気味のまま娘は学校を辞めた。私は教育者として、親として、最大の失敗だと感じた。自分を責め、そして娘に怒りまくっていた。「こんなにお金も時間もかけたのに」と。

高校中退後、娘はしばらく何もしなかった。ずっと家でスマホをいじったり、Netflixを見たり。何もしない娘のその姿を見るたびにイライラは募っていった。――しかし、ターニングポイントが訪れる。

ある日のこと、私が「もうずっと1日中何もしてない!スマホを触ってばかりだ!」と言うと、は泣きながらこう反論した。

「ママ、私がこういう自分を好きだと思っているわけ?1日家におって、スマホを見たいと思っているって。ママとパパは仕事に行ったり、妹たちは学校に行ったりしてる。何もしていない私は迷惑だ。私は何をすべきか、何がしたいか、全く分からない。けど知りたいよ。こんな自分は好きじゃない」

私はまた深く反省した。自分の娘のことをよく分かっていない――いや、分かろうとも全くしていない。どうしたら幸せになれるだろう?どうしたら、最愛の娘が自分の居場所を見つけられるのだろう?


娘のために私が変わる

とにもかくにも、私は変わった。娘を変えることはできないけれど、自分は変えられる。娘が生きていることに感謝すると決めた。生きているだけでいい。将来はなんとかなる。

やがて、「もしかしたら環境を変えた方がいいのかも」と思い始めた。娘は周りの人に見られるのを嫌い、学校にも外にも行きたがらない。それなら、絶対に目立つことのないアメリカに行かせるのは一つの選択肢かもしれない、と。

ありがたいことに、テキサス州に住む親戚が喜んで娘を受け入れてくれ、1年間、彼女はアメリカの高校に留学することとなった。そして、アメリカではたくさんの友達ができ、やっと自分が目立たない場所を見つけた娘は、外でも過ごせるようになる。

普通に学校に行けた。普通に友達ができた。そう安心したものの、また新たな悩みが生じる――それが、「学校の勉強に全然ついていけない」ことだった。


再びぶつかった「勉強」の壁

留学先の学校との事前相談では、「英語は話せるけど、読み書きは苦手だからしばらくはESL〔*2〕を受ける必要があると思う」と伝えておいた。しかし、娘は英語が話せたため、ESLから追い出される形で、すぐに普通の高2の授業に入れられた。

学校側は、「英語が話せるなら勉強も大丈夫だろう」と考えたようだが、英語が話せる=アメリカの高校の授業についていけるとは限らない。娘はそれまで全ての教育を日本語で受けてきた。研究論文どころか、英語で作文すら書いたことはなかった。アメリカの歴史もほとんど知らず、かろうじてエイブラハム・リンカーンが分かるくらい。数学の解き方や用語も違っていて、とんでもない苦労を抱えていたのだが、「英語は話せる」ゆえに、娘のこの苦労を学校側はなかなか理解できなかったらしい。結果的にほとんどの教科の単位は取れたものの、わずかに落とした分については、オンラインのサマースクールで再履修しなければならなかった。

〔*2:編集部注〕ESL(English as a Second Language:第二外国語としての英語)
英語が母国語でない学生のために設けられた英語プログラム。通常の授業の合間や放課後、あるいは英語(日本でいうなら「国語」)の授業時間などに該当者がこのプログラムを受ける。ESLを設けている学校とそうでない学校がある。


もう一度アメリカに、という目標

そして、2年生の終わりに日本に帰国。娘はもう1年アメリカに残ることを希望していたが、さまざまな事情でそれは叶わなかった。彼女の自己肯定感は再びどん底に落ちた。大好きなアメリカとアメリカの友達から離れ、溶け込めない日本社会にまた戻らなければいけない。

長女の心は日本人だ。日本の料理が大好きで、日本語も問題なく話せる。アメリカでは自分の居場所を見つけた一方で、勉強についていくことができなかった。「結局、私は何者なのか。私の居場所は一体どこにあるのか」と悩みに悩んで、娘は高校3年の年はオンライン授業を履修することに決めた。日本で高校を卒業し、そして、成人してから、また大好きなアメリカに行くのだ。


母親として揺らがなかったこと

長女がアメリカから戻ってきて1年半。その間、娘はたくさん泣いたり、カウンセリングを受けたりもした。それと同時に、喜びもあったし、彼女の成長だって見えてきた。妹たちと遊ぶ時の笑顔。ドラムを叩く姿から無限に溢れる才能。それから、頑張って15キロのダイエットを成功させた努力。

私は親としてたくさんの失敗をしたけれど、少なくとも、「よくできた」と言えることが一つある。それが、ずっと娘を信じ続けたことです。娘の才能と可能性を、ずっと信じ続けてきた

10年間、娘が泣いた日や、自分を疑った日は数え切れないほどあった。だけど私はずっとそばにいて、「あなたは大丈夫だよ。絶対に大丈夫。無事に大人になるよ」とハグしながら言い続けた。しんどくて諦めたい気持ちになったことも、もちろんあった。

でも、反抗期の娘や、不登校の娘の“表面の層”を引き剥がしたら、そこには「自信がない、だけどどうしても自分の居場所を見つけたい子ども」の姿があった。その子にとって、何よりも「自分の可能性を信じてくれるママ」が必要だった。私は他の何もできなかったけれど、娘を無条件で愛すること、そして、無限大の可能性を信じることはできた。それしかできなくて、そしてそれで十分だった。


娘がくれた言葉

今月、娘は無事に高校を卒業した。4年という歳月をかけ、日本とアメリカの2カ国で3つの学校に通った。たくさんのお金と時間とエネルギーを費やした。でも、卒業生となった娘の笑顔を見た時、そんなことは全部どうでもいいと思えた。私の中には誇りしか残っていない。

この試練を通して、母親である私も娘も成長し、2人とも強くなった。これからもきっと試練はあるだろうけど、2人でその試練を乗り越えていける。

その娘がこの間言ってくれた言葉。

Mama, nobody loves you like I do!(ママ、私ほどママのことを愛してる人はいないよ!)

多分、まで言われた中で、一番嬉しかった言葉かも。

親子でたくさんの出来事に悩み、そして一緒に乗り越えてきた2人。

多様性のメッカに旅立つ

この3月から、娘はやっと大好きなアメリカに舞い戻ることができる。というのも、オンライン高校で学ぶ間に、彼女は新たなパッションと才能を花開かせた――それが、メイク。4月に、ニューヨークにある美容の専門学校に入学することになったのだ。メイクの才能があり過ぎて、娘は私のシワだらけの顔もきれいにできる!マジで天才だ。

ニューヨークは、まさに多様性のメッカ。その地で娘が自分の居場所を見つけ、「ここに来てよかった」思えることを願うばかりだ。また、多様性の中に身を置くことで、「日本で育ってよかった」とも感じるようになるかもしれない。そういう風になったら、母親として何よりも嬉しいことだ。

私にとっては、日本という国が居場所。でも、なぜそうなったのかまだ説明できていないよね。次回は、人生を変えてくれたもう1人との素敵な出会いについて書きます。お楽しみに!


クレシーニ・アン
クレシーニ・アン

アメリカ・バージニア州生まれの日本の言語学者(海外語学研修・言語学)。学位は応用言語学修士(オールド・ドミニオン大学・2002年)。北九州市立大学基盤教育センターひびきの分室准教授。和製英語と外来語について研究している。作家、コラムニスト、ブロガー、コメンテーター、YouTuber、むなかた応援大使、3人の娘を持つ母。(写真:リズ・クレシーニ)

●ブログ:「アンちゃんから見るニッポン
●Instagram:@annechan521
●X:@annecrescini

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