今回取り上げるのは、日本語翻訳版の小説が2021年本屋大賞で、翻訳小説部門第1位になった『ザリガニの鳴くところ』という作品です。am notなどの短縮形として使われるain’tという言葉の訳し方を、翻訳家の有好宏文さんが考察します。aren’tやisn’tという形は一般的なのに、なぜain’tは標準とならなかったのでしょうか。
目次
ain’t」、aren’t、そしてisn’t: 英語短縮形の歴史と使い方
ディリア・オーウェンズの大ヒット小説『ザリガニの鳴くところ』(2018)の映画版を見ていたら、冒頭辺りでain’tという語が、面白い使われ方で登場していた。このain’tは、英語の教科書ではあまり見かけないが、映画やドラマや小説には、しょっちゅう登場する頻出語である。am notやare notや is notなどの短縮形として、多くの人が話し言葉で使っている。
am not / are not (aren’t) / is not (isn’t) = ain’t
どうして教科書で見かけないかと言うと、ain’tは非標準的な口語表現とされているからである。この言葉はとにかく評判が悪くて、無教養で下品な人が使う言葉だと多くの人が考えている。だからかしこまった英語を教えるべき教科書には載らないというわけだ。
『ザリガニの鳴くところ』でも、ain’tは無教養の印として登場する。物語の舞台は、アメリカ南部ノースカロライナ州の湿地帯。主人公の少女の家族は「ホワイト・トラッシュ(白い屑)」と蔑まれる貧困白人階級で、父親の暴力から逃れるために、母親やきょうだいが次々に家を去ってゆき、ついには父親も姿を消してしまう。取り残された少女は、湿地の自然に育まれながら、一人で生き延びてゆく。
映画の冒頭で、このain’tを使って話す子供たちに向かって、母親が次のようにたしなめていた。
‘Ain’t’ isn’t a real word.
「本当の言葉ではない」ain’tではなく、標準的とされるaren’tやisn’tを使いなさいと教えているのだ。ぼろぼろの小屋や外に干された洗濯物を背景に、子供たちがこの言葉が使うことで、登場人物たちの社会階層がはっきりわかる仕掛けだ。「本当の言葉」を使うことで、その階層から抜け出してほしいという母親の願いも伝わってくる。
それから母親ときょうだいが家を去り、父親と少女が二人だけで暮らしていたある日、母親から手紙が届く。それを読んだ父親は、ain’tを使いながら、母親は二度と帰って来ないと少女に告げる。
She ain’t never coming back.
少女は父親の言うことが本当だとは信じない。なぜなら、「本当の言葉」ではないain’tを使って話しているからだ。少女は言う。
That isn’t true. ‘Ain’t’ isn’t even a real word!
たったこれだけのやりとりで、一家の社会階層に加えて、少女の母親とのつながりも視聴者は感じ取る。
言葉自体が話題となるセリフや文章は、訳しにくいことがほとんどだ。ここでも、ain’tという言葉の持つ力を最大限に使った表現なだけに、訳そうとすると困ってしまう。どうすれば、込められたニュアンスを漏れなく伝えられるだろうか。
2021年本屋大賞受賞作『ザリガニの鳴くところ』で使われるain’t
この映画とほぼ同じやりとりが原作小説にもある。母親からの手紙を読んだ後のシーンはこうだ。
父親:She ain’t comin’ back, so ya can just forget ’bout that.
少女:That isn’t true . . . Ain’t isn’t even a word!
やはり映画版と同じく、父親がain’tを使って話しているところがポイントだ。これを日本語版では、うまく訳している。
父親:あいつは帰ってこねえぞ。おまえもいつまでもこだわってるんじゃねえ
少女:そんなの噓だよ . . . 〝じゃねえ〟なんて、言葉とも呼べないんだから!
(友廣純訳、早川書房)
この翻訳では、ain’tの乱暴な響きを、否定の「ない」の代わりに「ねえ」を使うことで表現している。この翻訳がさらに工夫しているのは、She ain’t comin’ backの部分に「こねえ」を使っただけでなく、父親がその次に言うya can just forget ’bout thatの部分も「こだわってるんじゃねえ」とした上で、少女のセリフでは後半の「じゃねえ」を受けているところだ。これをもっと機械的に、原文にain’tがある箇所だけを対応させて訳すと、こんなふうになるだろうか。
父親:あいつは帰ってこねえぞ。おまえもいつまでもこだわるな。
少女:そんなの嘘だよ . . . 〝ねえ〟なんて、言葉とも呼べないんだから!
(太字が変更部分)
ほら、なんだか締まりが悪くなった。日本語訳者が選んだ「じゃねえ」のほうが、「ねえ」よりも単独で言葉として認識しやすくて、迫力がある。
ain‘tがたどった歴史:isn’tとaren’tとの違い
せっかくなので、ain’tという言葉の歴史をひも解いてみたら、なかなか面白かったので紹介しよう。
ain’tの起源は諸説あるが、18世紀頃までにはam notの短縮形として広く使われていたようである。発音が徐々に簡略化されることで、am not → amn’t → an’t → ain’tと縮まって生まれたと考えられる。もっぱらam notの代わりとして使われていた当初は、ain’tはさほど問題のある表現だとは考えられていなかったらしい。そのまま行けば、aren’tやisn’tが今日占めているような地位に、ain’tも収まることになったのかもしれない。
しかし、現実にはそうはならなかった。19〜20世紀にはare notやis not、さらにはhave notやhas notなどの短縮形としてもain’tがよく使われるようになってきたせいである。
are not → aren’t → an’t → ain’t(r音の脱落)
is not → isn’t → in’t → an’t → ain’t(s音の脱落)
have not → haven’t → an’t → ain’t(h音、v音の脱落)
has not → hasn’t → an’t → ain’t (h音、s音の脱落)
それぞれが発音の省エネのためのこうした変化をたどりつつ、おそらく互いに影響もし合いながら、ain’tに合流していったのだろう。こうして、am notでもare notでもis notでもhave notでもhas notでも、なんでもain’tで表現できるようになった。
さらに、アフリカンアメリカンの人たちは、これらに加えて、do notやdoes notやdid notの代わりにもain’tを使っている。こちらは人称に加えて時制の区別もなくしていて、とても使い勝手の良さそうな表現である。
こうしてain’tがなんでもありの言葉になってくると、規範的な文法を信奉する人たちが、ain’tは文法を無視した間違った英語であると激しく非難し始めた。いわく、amもareもisもhaveもhasもdoもdoesも関係なくなんにでも使えるなんて、文法概念を軽視した誤用である、とかなんとか。こうして「ain’t=悪」の図式が出来上がると、長らく許容されていたam notの短縮形としての用法さえ、立場が怪しくなる。あらゆるタイプのain’tが、話者の無教養を表すものとして、やり玉に挙げられるようになった。
こうやって歴史をたどっていたら、中学校で英語を初めて習ったときに、「aren’tやisn’tという短縮形はあるのに、どうしてamn’tはないんだろう?」という疑問を抱いたことを思い出した。その答えは多分、徐々に世に認められつつあったam notの短縮形としてのain’tが、他のain’tともども悪い言葉として排除されたために、そこにポッカリと空白が生まれてしまったからなのだろう。言語学者たちはこの現象に「amn’t gap(amn’tの欠落)」という名前まで付けて議論を続けているらしい。
以上がain’tの歴史の一端である。
ain’tが持つ言葉の響き
以上の歴史を経て、ain’tは悪者として避けられるようになったが、それでも完全に消えてしまわないのが言語の面白いところで、独特のニュアンスを帯びた言葉として使われ続けている。ロバート・ヘンドリクソンという学者は、アメリカ人がこの言葉を使う気分を、ずばりこう言い当てた。
「アメリカ人は現代このainʼtを使うべきではないということになっているが、どうしてどうして、アメリカ人が実際に話すのを聴くとまぎれもなくainʼtが聞こえる。教育のある人達はainʼtを人目を気にしてニヤニヤ笑いながら使い、教養のない人達はごく自然に使かっている」。(『フレックスナー アメリカ英語事典』、R・C・ゴリス訳)
ブルースやロックの歌詞にもain’tはどんどん登場する。エルビス・プレスリーの「ハウンド・ドッグ」の有名な歌い出しもこうだ。
You ain’t nothing but a hound dog.
おまえは所詮(しょせん)ただの猟犬だ
規範文法派から、ain’tと同じくらい目の敵にされる二重否定が使われているのも相まって、雰囲気がある。これを標準的な英語に書き直して、You are nothing but a hound dogとすると台なしだ。
また、イディオムなどの定型表現にもain’tは姿を見せ、ユーモラスな雰囲気を生み出す。「You ain’t seen nothing yet.(お楽しみはこれからだ)」も、「You haven’t seen anything yet.」だとなんだか物足りないし、「That ain’t hay!(そりゃ大金だぞ)」や「If it ain’t broke, don’t fix it. (余計なことはするんじゃねえ)」も、ain’tじゃないと決まらない。いつか千載一遇のチャンスが訪れたら、こんなフレーズを口にしてみたいものだ。
これらのいずれのケースでも、「無教養」「粗野」「荒っぽい」というain’tが帯びるイメージが息づいている。こうしたain’tの社会的な位置付けが広く認知されているからこそ、『ザリガニの鳴くところ』の冒頭のain’tは読者に強い印象を与える。確かに原作小説の日本語版はとても工夫された翻訳で、これ以上のものはちょっと思い浮かばないけれど、どうしても英単語が持つ歴史的・社会的ニュアンスは、日本語になるとどうしても弱まってしまう。
さらに映画版では、小説の日本語訳者が行った工夫も採用できなさそうだ。「じゃねえ」という言葉で訳された、父親の後半の発言がセリフにないからだ。字幕翻訳は書籍翻訳よりも文字数などの制約が多くて、独特の難しさがあると聞く。日本語字幕版や吹き替え版は、僕の住む地域では試聴できなくて確認できていないが、どうなっているのだろうか。訳者の苦労が目に浮かぶ。
参考資料
後藤弘樹. “ainʼt”,“hainʼt” の言語思想史的語法の諸相.中央大学経済研究所年報 第50号、2018、pp.451-481 https://core.ac.uk/download/pdf/229779529.pdf
本文写真:Julie May, Ryan De Hamer from Unsplash
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