ビジネス界には訳しにくいキーワードが多く存在しますが、その中でも「wholeness(全体性)」は特に難解な言葉です。この記事では、「wholeness」の訳語の難しさと魅力について、翻訳家の樋口武志さんが考察します。
複数の意味を持つ語の訳しづらさ
レジリエンス(回復力)。インテグリティー(高潔さ、誠実さ)。オーセンティシティー(偽りのなさ)。ビジネスの領域で訳しにくいキーワードといえば、これらが思い浮かぶ。
カタカナが用いられる理由はさまざまだろう。訳語だけでなく元の単語を知っておいたほうが海外でも話が通じるし、訳語だけをビジネス書のタイトルにするとなんだか収まりが悪い(たとえば『高潔さ』よりは『インテグリティー』のほうが本のタイトル風である)。
また、適した造語を考え出すという手もあるが、よほど分かりやすいものでない限り、見慣れない言葉はどうしても悪目立ちしてしまう危険性がある。
しかし、カタカナが使われる最大の理由は日本語にぴったりくる対応概念がないからだ。そのため一つの訳語に固定することが非常に難しく、複数の言葉を用いて説明することになる。
たとえばレジリエンスは「ストレスや困難によって降りかかる圧を跳ね返す力」とでも言えるが、その言葉が個人に向けて使われると「回復力、折れない心、逆境力」といったニュアンスになり、組織に向けられると「状況に対応しながら困難を乗り越える」といったニュアンスになる。それだけでなく、物理の世界では「弾性」を意味する言葉としても用いられている。つまり、どのシチュエーションにも共通して使えるような訳語が見当たらない。しかも元の用語に厳密な定義があるわけでなく、分野や著者によって微妙に使い方が違ったりするものだから、お手上げである。
wholenessという語が含む多様なニュアンス
さて、どうしてこんな話をしているかというと、同じように最近ビジネス界でよく使われる訳しにくい言葉「whole/wholeness」をキーワードにした小説に出合ったからだ。アン・ナポリターノの新作『Hello Beautiful』は、wholenessという言葉が持つニュアンスや、人生のうまくいかなさと愛おしさが見事に伝わってくる美しい小説だ。その宣伝文句には、こうある。
Can love make a broken person whole?
愛は傷ついた人を「whole」にすることができるか。
小説内には次のような文も登場する。
he told her that he felt an ease with her, a wholeness, that he’d never felt in his life.
彼は彼女に、一緒にいると安らぎ、wholenessを感じる、こんな感覚は人生で初めてだと言った。
wholenessは、欠けたり分裂したり傷ついたりしていない「完全な状態」を指す。そこから連想して満ち足りた状態、充足感、あるいは「丸ごと」という意味合いから、ありのままの自分というニュアンスだと考えることができる。
だが、研究報告(下記参考文献)にもあるように、wholeは古英語halから派生したもので、同族の言葉にはheal=癒やす、health=健康、holy, hallow=(完全が転じて)神聖な、などがある。そしてwholeには「being healed」という意味があることも踏まえると、可能なら「回復」のニュアンスも入れたいという気持ちが湧いてくる。
参考文献:[PDF]healthの語源とその同族語との意味的連鎖 -意味的連鎖という視点からの語源研究の有効性-(江藤裕之)
そしてこの小説を読むと、そんな気持ちがいっそう強くなる。ときどきにせよ、wholenessに欠落からの回復といったニュアンスが含まれているからだ。
小説『Hello Beautiful』のwholenessをどう訳すか
『Hello Beautiful』は、『若草物語』を思わせる4姉妹を中心とした物語だが、登場人物の多くは人生に何かが欠けていたり、何かしらの関係が壊れていたりする。姉妹は幸せな幼少期を過ごすが、やがて離婚や、病気や、道ならぬ恋や、予期せぬ妊娠などから、想像していた形とは別の人生を歩むことになり、自分の思いを部分的に抑えながら、あるいは親や姉妹と疎遠になりながら生きている。
そうやって部分的に「欠けた」人生を送る登場人物たちだが、自分を全面に出して満ち足りた気持ちで過ごせる場所や相手を得ようと葛藤している。そういう場所や相手にたどり着く媒介材料として愛が存在している。
They’d fixed what had been broken between them, which meant his wife had found wholeness.
姉妹たちは壊れた関係を修復した。つまり、彼の妻はwholenessを見いだしたのだった。
それは私たちの人生によく似ている。親の死、別れ、病気、けんか、恋愛など、一つの出来事で人生は思い描いた幸福とは違った形に変わっていく。その過程で傷ついたり、誰かとの関係が変わったり、自分の一部を押し隠したりして生きることがある。だが、そこを抜け出して、wholeness(つまり回復し、欠けることのない全的な自分として満ち足りた状態)を追い求める・・・。
というようなニュアンスを「whole/wholeness」の訳語に込めたいのだが、それは至難の業である。見てのとおり長ったらしい定義なので、短くすると必ず何かが取りこぼれる。悩みに悩み、本原稿は遅れに遅れたが、「本来の自然な姿・状態」くらいが良いあんばいではないかと思うがどうだろうか。wholefoodという言葉が、栄養が損なわれないようなるべく無加工にした自然食品のことを指すのに似ている。
もちろん、この小説以外の文脈では「部分と全体が切り分けられず、一体になっている状態(内臓や環境など)」などを指すことがある。ビジネス用語としては「自分をすべて出す」という意味に加えて、他人やコミュニティーや自然との一体感・調和といった意味合いを含めて「全体性」という言葉が用いられることが多い。
時々、このwholenessのようにニュアンス全体を表現することが難しい単語に出合うことがある。どこを取っても何かは取りこぼれるから負け戦なのだが、負けるにしてもなるべくあがいて負ける、というのが翻訳のつらさであり面白さでもある。
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