連載「翻訳の不思議」第13回。今回は翻訳家の有好宏文さんが、自身の経験から辞書アプリと電子辞書の使い方について話します。翻訳のときと読書のときで、辞書をどう使い分けているのでしょうか。アプリや電子辞書、紙の辞書を使う利点は?
「辞書は金で買える実力」とは
「翻訳をしています」と人に言うと、時々、「じゃあ、英語の本も、辞書とか引かないで読んじゃうんですか」と聞かれることがある。そうなりたいものだとは思うけれど、しかし現実はむしろ逆で、翻訳をするようになってから、以前よりもはるかに辞書を引くようになった。翻訳界隈では「辞書は金で買える実力」という格言があって、出典は見つけられないが、ロシア語通訳者の米原万里の言葉だそうだ。とにかく、翻訳者はよく辞書を引くものだと思う。
今回の「翻訳の不思議」は、進歩が目覚ましい辞書環境について書いてみたい。これまでの僕の辞書遍歴をたどりながら、現時点で気に入っている環境を紹介する。辞書といっても中身の話というより、電子辞書とか辞書アプリといった、辞書のインターフェイスの話がメインです。
電子辞書を買い替えてレベルアップ
ちゃんと辞書を使い始めたのは、高校に入ってしばらくして、電子辞書を手に入れてからだった。僕の世代(1987年生まれ)だと、紙の辞書よりも電子辞書とともに育ってきた人が多いと思う。カシオのエクスワードで、確か『ジーニアス英和辞典』が入っていたはずだ。高校入学時に一応買った紙の辞書に比べて、ずっと軽いし、指でキーボードをぱちぱち押したら単語が一瞬で画面に出てくる。あまりに便利で、もっぱら電子辞書を使うようになった。
それからは、成長に合わせて脱皮を繰り返すヘビのように、学習の段階が進むたびに電子辞書を買い替えてきた。大学に入るときには、第2外国語の辞書データを追加できる、「大学生向けモデル」の電子辞書を大学生協で買った。英語の辞書は、それまで使っていた『ジーニアス英和辞典』よりも大きな『ジーニアス英和大辞典』が入っていて、「大学生ともなると大辞典を使うんだな」と納得した。大人になったようでうれしくて、英語を引くときには真っ先に『ジーニアス大辞典』のボタンを押した。
大学院に入って翻訳をするようになると、これからは英語のプロを目指すのだからと奮発して、エクスワードの「プロフェッショナルモデル」を買った。『ジーニアス英和大辞典』だけでなく、他の大辞典も全部(『リーダーズ英和辞典』『リーダーズ・プラス』『新英和大辞典』『ランダムハウス英和大辞典』)入っていて、なんだか本当にプロになったような気がした。大辞典ばかり引くようになった。
蓋をぱかっと開けて、小さなキーボードをぱちぱち押す。手が一連の動作をよく覚えていて、もはや体の一部みたいになっていた。そんな電子辞書を使わなくなる日が来るとは、思ってもみなかった。
iPhoneとMacの辞書アプリがすごく便利
きっかけはスマホだった。数年前に、スマホに辞書を入れられると聞き、外出先でもすぐに引けて便利だなと思って買ってみた。物書堂(ものかきどう)というソフトウェア・ディベロッパーが提供している「辞書by物書堂」というiPhone向けのアプリで、必要な辞書を選んで購入できる。
すると、検索結果の画面や辞書の切り替えなど、あらゆるユーザー・インターフェイス(UI)が素晴らしく、電子辞書よりもiPhoneに手が伸びるようになってしまった。とにかく使いやすい。辞書を四六時中引く翻訳者にとって、辞書の中身はもちろんのこと、使いやすさはとても大事だ。
英和大辞典のラインナップも充実していて、上記の大辞典がすべてインストールできる。
これで「翻訳者の辞書環境は物書堂の時代」になったという意見も聞く。
そして、2021年の春に大事件が起こった。物書堂の辞書がMacOS版のアプリを発表したのである。小さなスマホの画面ですら便利に使っていた辞書が、パソコン上でも引けるようになってしまった。パソコンの画面に英語原文と訳文と辞書画面を並べて翻訳できるので、パソコンと電子辞書を行ったり来たりしなくてよくなった。夢のような環境を作ってくれた物書堂には足を向けて寝られない。
こうして、もっぱらMacとiPhoneの物書堂のアプリで引くようになった。だんだん出番のなくなった電子辞書は、引き出しの中で眠るようになった。
大は小を兼ねない
この辞書アプリに初めてインストールしたのは『ウィズダム英和辞典』だった。高校生くらいから使うことが想定された学習英和辞典で、大辞典に比べると収録語数が少なくサイズも小さい。大は小を兼ねるという思い込みから、大学生になってからは大辞典ばかり引いていたが、久しぶりにアプリで『ウィズダム』を引くようになって、学習英和辞典の良さを実感した。文法の説明が行き届いているし、例文も豊富だし、滅多に改訂されない大辞典と違って、学習英和辞典は頻繁に改訂されているので、新しい言葉も載っている。
2022年に改訂された学習英和辞典の『ジーニアス英和辞典』の第6版には、「英語史Q&A」というコーナーが追加された。たとえば、secondになぜ「第2の」と「秒」の全然違う意味があるのか、とか、次に続く語の最初の音によってaとanを使い分けるのはなぜなのか、といった学習者の疑問に、英語史が専門の堀田隆一さんが答えている。長年の疑問にずばり答えてくれているので、アプリ上でまとめて読んでしまった。
辞書は大きければいいというわけではないのだ。まずは学習英和を引き、それで足りないときには大英和を引くという使い分けをするようになった。
眠っていた電子辞書が復活
冒頭の「辞書を引かずに洋書を読むのか」という質問の影には、「辞書を引かずに外国語の本を読みたい」という気持ちがある。僕も、すらすら読みたいと願っているが、現実には本を読めば知らない言葉や言い回しにいくらでもぶつかる。
外国語で本を読むときに辞書を引くべきかどうかは、外国語学習者を悩ませる古典的なテーマだ。辞書を引かずに文脈を追うという人も多いが、僕はわりと調べたくなるタイプで、かつては本と一緒に電子辞書を持ち歩いて読んでいた。アプリの辞書を使うようになってからは、本を読みながらスマホを触るようになった。でも、スマホには辞書だけでなくいろんなものが入っている。メールやラインの通知も来るし、X(旧Twitter)やYouTubeだって見られる。本を読んでいる途中で集中が途切れることが多くなった。
それで、机の引き出しに眠る電子辞書に久しぶりに電池を入れてみた。何事もなかったかのように起動する。手になじむ感じが懐かしい。iPhoneのきびきび動くプロセッサーと物書堂アプリの滑らかなUIに慣れた体にはちょっとのろく感じるけれど、それもアナログな感じがしてかえって面白い。何より、辞書しか引けないから、思考を妨げない。
というわけで、翻訳などの作業のときには物書堂アプリ、読書に浸かりたいときには電子辞書、という使い分けをするようになった。電子辞書もずいぶん使いやすくなっていると聞くので、日本に一時帰国したら最新型を試してみたい。
紙の辞典も好きで使っている。アメリカで定番のメリアムウェブスター社から出ている、ネイティブスピーカー向けの中型辞典『Merriam-Webster’s Collegiate Dictionary』と、学習者向けの『Merriam-Webster’s Advanced Learner’s English Dictionary』を愛用している。日本ではあまり人気がないのか、電子辞書や物書堂にも入っていないので、オンライン版と紙の両方を使っている。アメリカの書き手が参照する辞書なのだし、日本の学習者の多くはアメリカで書かれた文章を読んでいるのだから、いろいろ事情はあるのだろうけど、電子辞書やアプリ辞書のラインナップに入るとうれしい。
【注】もちろん、物書堂アプリのUIにも改善してほしいと思う点がないわけではない。成句を検索したときに、同じ辞書の別の箇所にジャンプするように指示されることがあるが、このひと手間をかけずにその場で分かったらいいなあといつも思っている。紙の辞書の場合にはスペースを節約できる利点があるのだろうが、電子データの場合にはそういう制約はないはずだ。技術的に可能なのかわからないが、このひと手間が省けたらとてもありがたい。
【注】僕が使っている2016年モデルのカシオの電子辞書では、大辞典を引くと単語の検索結果の画面には例文が載っていなくて、「用例」という赤いボタンをいちいち押さなければ例文が見られない仕様になっている。ささいなことだが、このちょっとした面倒のせいでついつい例文を見る頻度が下がってしまって良くない。最新型の電子辞書がどうなっているか分からないが、物書堂のように例文が目に飛び込んできやすいUIになると学習効果が上がると思う。
【注】自分が使っているiPhoneとMacの話ばかりしてしまったが、WindowsやAndroid向けにはロゴヴィスタという会社が同様の辞書アプリを提供していると聞く。こちらは未使用なので使い勝手はわからないが、選択肢になるかもしれない。
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