60代、死を意識し始めたときに考えること【EJ Culture文学】

ランニング、サイクリング、山歩き……。取り組んできた運動を通して振り返られるコミック作家の人生とは?今回は翻訳家の樋口武志さんに、アメリカのコミック作家アリソン・ベクダルによるグラフィックノベルをご紹介いただきます。

運動から人生を振り返る異色の回想録

The Secret to Superhuman Strength, Alison Bechdel (2021)

今回はグラフィックノベルを紹介する。海外のコミックに近いが厳密な定義はなく、小説のような一つのまとまった話が絵と言葉で重厚に描かれていく作品を指すことが多い。

『The Secret to Superhuman Strength』(2021)は、アメリカのコミック作家アリソン・ベクダルの新作だ。彼女が2006年に発表した『ファン・ホーム ある家族の悲喜劇』は大きな話題を呼び、ブロードウェーで舞台化され、近年、日本でも上演された。同性愛者であることを秘密にしながら事故死した父との関係が自伝的に描かれた作品だ。

彼女は続く『Are You My Mother?』(2012、未邦訳)で、母との関係を描いている。そして本作では自分自身に焦点を当てているわけだが、その形式がとても面白い。ランニング、スキー、空手、ヨガ、ジム、サイクリングなど、自分が取り組んできた運動について詳しく描きながら人生を振り返っているのだ。

もちろん、ただ自分がやってきた運動の歴史が振り返られるのではない。なぜその運動をし、そこに何を求めていたのか。そうしたことが人生の出来事と共に振り返られる彼女の精神の記録となっている。作品は、彼女が生まれた1960年代から10年ごとに区切って現在まで描かれる形式だ。

なぜ人は運動をするのだろう。リフレッシュできる爽快感?目標を超えたときの達成感?自分を鍛えて得られる自信?アリソンの目的は、自意識から抜け出し、エゴを乗り越えることだった。

彼女が10歳の頃には男性的な力に憧れ、1ドルを払えば「The Secret to Superhuman Strength(超人的な力の秘密)」が送られてくるという広告を見て、こっそり申し込んだりする(薄い柔術の指南書が届いただけだった)。10代の頃には、スキーやジョギングに執拗なこだわりを見せる。その様子は何かに取りつかれているようにも、何かから逃れるようにも、何かを忘れようとしているようにも感じられる。

読み進めると、彼女自身が同性愛者であることや、前作・前々作で描かれた両親との関係が遠くで影響していることが分かってくる。20~50代の間は、コミュニティーを得たり、リフレッシュしたり、身体の痛みを感じて生を実感したり、創造的な「フロー」状態を体感するために空手、ランニング、サイクリング、山歩きなどさまざまな運動にいそしむ。

運動による健康・成功を礼賛する本では全くない。むしろ、私生活や仕事の苦しみ、そして肉体的な衰えにあらがおうとしてきた記録だ。しかし60代になって死を意識し始めた彼女は、人生を終わらせないようにすることよりも、あらがおうとしないことが大事なのではないかと考えるようになり、The only thing to transcend is the idea that there’s something to transcend.(乗り越えるべきものは一つだけだ。それは「乗り越えるべきものがある」という考えである)という気付きを得る。

禅の悟りのようだが、同じような境地に至ったのは彼女だけではない。超越主義(transcendentalism)を唱えたラルフ・ウォルドー・エマソンやマーガレット・フラー、『ダルマ・バムズ』(1958)で山歩きの体験を描いたジャック・ケルアックら作家たちの経験も、本書には随所に挿入されている。作中の登場人物と作家・作品が重ね合わせられるのも彼女の特徴だ。

これまでやってきた運動は自分にとってなんだったのか。これからどんな運動をして自分と向き合ってみようか。そんなことを考えたくなる一冊だ。

今回紹介した本

ENGLISH JOURNAL ONLINE編集部
文:樋口武志(ひぐち たけし)

翻訳家。訳書に『ウェス・アンダーソンの風景』(DU BOOKS)、『insight』『異文化理解力』(共に英治出版)、『ノー・ディレクション・ホーム』(ポプラ社/共訳)などがある。
Twitter: https://twitter.com/Takeshi_Higuchi

※ 本記事は『ENGLISH JOURNAL』2022年3月号に掲載した記事を再編集したものです。

Image by Gerd Altmann from Pixabay

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