翻訳者、丸山清志さんによる連載「翻訳者のスキルアップ術」の第5回。丸山さんは企業に勤めた後、翻訳・通訳者として独立して仕事をされています。独立前後で仕事に対する考え方はどう変わったのか、「お金」「出会い」「質」をキーワードにお話しいただきます。
仕事の姿勢や考え方が変わった独立後
翻訳や通訳の仕事には、企業に所属する社内翻訳者・通訳のように会社員として働く形態と、私のように翻訳会社や派遣会社に登録するなどして、個人事業主やフリーランスとして独立して仕事をする形態があります。
翻訳や通訳に限ったことではありませんが、会社員として働いていた人が独立して仕事を始めると、物の見方や考え方ががらりと変わることがよくあります。
私自身、会社員を経験した後に独立し、振り返ってみると、考え方が大きく変わったと思うことが幾つかあります。今回は私が独立する前と後で、自分の仕事の考え方や姿勢にあった変化についてお話しいたします。
もちろん、独立する人が全員、私のような体験をするとは限りません。それぞれ独立するタイミングも、仕事の内容も独立後の業務スタイルも違うのです。よって、今回の話はあくまで私個人の体験ということでお読みいただければと思います。
全てはお金(価値)
独立前後で変わったことを考えてみると、大小さまざまなことがありますが、今回はその中でも自分の経験として大きかった変化、特に独立後の鍵になると思われる変化を3つご紹介します。
1つ目は、「全てをお金の価値に結び付けて考えるようになったこと」です。これは、既に独立している人であれば、もしかしたら共感していただけるかもしれません。
私は翻訳者として独立する前、小規模な英会話スクールを経営する企業で会社員をしていました。小さな会社でしたが、会社の柱の1つである業務を統括するという、責任ある仕事も任せてもらいました。ですから、お金の流れも見ていましたし、自分が独立した後の業務もある程度は想像できていたつもりでした。
それでも、いざ独立して、仕事の獲得から品質管理、アフターサービスまでを自分で担い、自社の顧客関係や将来の展望の管理まで全てを経験してみると、以前は全く見えていなかったのではないかと思うくらい、見える景色が変わりました。
会社員時代は、責任者であったとはいえ、どこか他人事だったのかもしれません。自分が目標達成のために死に物狂いになって働き、「何が何でも達成しなければ!」という強い意志を持っていたとは思えません。
売上目標自体は前任者から引き継いだものでしたし、事業部の業務自体が自分で構築したものでなかったからかもしれません。また、達成できなくても、翌月の給料は保証されていました。
ところが、独立してみると、自分が働いてお金を稼がないと収入が1円もなくなるということに、体感して気付いたのです。
自分の成すこと、成さないこと全てが、お金を生むか生まないかの境目になります。「今月は目標達成できませんでした」と、照れ笑いをして済む話ではないのです。
個人事業主にとって、目標不達成は倒産への第一歩を意味します。自分が働かないと生きていけません。手を差し伸べてくれる上司もいなければ、翌月給料を払ってくれる社長もいません。
それに気付いてからは、出張経費や備品から自分の働き方に至るまで、お金に結び付けないで考えることがなくなりました。
人との出会いが全て
独立する前後で大きく変わったことの2つ目は、「人とのつながりが全てと思うようになったこと」です。
翻訳の仕事に人とのつながりはあまり関係ないと思われるかもしれませんが、私の経験は少し違いました。
独立後、私はさまざまな勉強会に参加しました。そして、ある勉強会で教わって、今でも忘れられない一言があります。
それは、「お金(売上)を持ってきてくれるのは人(顧客)である」という言葉でした。
実はこの言葉自体は、今回の話の主旨とは少し違っていて、「仕事で大事にすべき人は社長でも上司でもなく、お金を持って来てくれる顧客である」という意味でした。
社長や上司などの管理職(の給料)は「経費」であり、よって管理職はいかにして自分というコストを最小化し、営業担当者のコスト効率を最大化するかを考えるべきだという、管理職向けの仕事術の話です。
私はこれを自営業である自分なりにアレンジして解釈し、「収入の源は、自分の実力でも仕事の効率でもハイテクでもなくお客さまである。だから、まずはお客さまを最優先に考えるべきだ」と捉えました。
翻訳の腕を磨いたり、最強のパソコン環境を、業務効率を考えたりすることももちろん大事ですが、顧客(取引先の担当者)がいなければ仕事は手に入りません。
自分に翻訳の仕事(収入)をくれるのは翻訳会社のコーディネーターさんであり、通訳の仕事をくれるのは通訳派遣事務所のマネージャーさんであり、書籍翻訳の仕事をくれるのは出版者の編集担当者さんです。そこへの配慮が抜けていては、いくら良い準備をしたとしても収入に結び付かないのです。
さらに私が大事にしているのは、「紹介された人にはとにかく会ってみる」ということです。自分の先入観で会う、会わないを決めないこと。どのようなチャンスがどこに転がっているか分かりませんし、せっかく紹介してもらえるのだから、とにかく会ってみるのです。
私の場合、歌舞伎町のスナックや新宿二丁目のバーから広がった人脈を通じて物にしたチャンスも少なくありません。夜の歓楽街は意外かもしれませんが、そういうこともあるので、私は割と真剣に通っています(決して、遊びに行く口実ではありません)。
その方面の人脈のお陰で、大学での講義やテレビ番組の通訳の仕事、オンライン書店で連日ベストセラーになるような訳書の出版もできました。どれも、自分の既存の人脈だけでは実現できなかったことです。人脈は、自分の持っている人脈だけではなかなか広がらないもので、思ってもみないところからつなげてもらえるものです。
自分に合わない人とは付き合う必要がない、人脈から外すべきだともよく言われます。独立前の私は、完全にその考えでした。しかし、自分の思いもよらない大きな仕事は、自分の既存の人脈を超えたところから来るものだということも、私は独立後に体験しました。
今では、付き合う人は自分で選ばないようにしています。要らない人脈は、後から絶てばいいのです。
質を優先して効率は二の次
私が独立する前後で大きく変わったことの3つ目は、「効率より質を優先するようになったこと」です。
会社員時代、私はいかに短時間で質の高い仕事をするかを重視していました。要するに、効率です。なるべく定時に帰り、土日は休み、仕事をしている時間を効率よく有効に過ごすことが優先事項でした。しかし、独立してからは真逆になりました。品質のためなら、効率なんか犠牲にしてやろうと思うようになったのです。
独立してからの大きな変化の1つに、自分一人で全ての仕事に責任を持ち、分からないことは自分で解決し、顧客に納品する翻訳の質を自分の責任で保証しなければならなくなったことがあります。
組織にいるときは、不明な点を上司に尋ねたり、誰かと責任を共有したりすることも可能ですが、自営業ではそうはいきません。翻訳の現場では、答えがすぐに出てこないこともよくあります。
結局、妙訳を発見したり、よく伝わる文章を書いたりする上で頼りになるのは自分の実力と調査だけ。そこにどれだけの時間と労力を投じるかが鍵となります。自営業者は自分が最終責任者です。そして、顧客に満足してもらえる成果物を提供できなければ、それで終わりです。
効率よく仕事をすることも大事かもしれませんが、私はそれ以上に質において妥協せず、顧客満足度のより高い仕事をするために、最後の最後まで時間と労力をかけることが大事だと考えるようになりました。
月曜に納期の仕事であれば、金曜に納品するのではなく、日曜にコーヒーを飲みながらもう一度読み返してみるとか、少し納得のいっていない訳語についてあと1時間余計に考えてみるとか、そういう時間がとても大事だと思うのです。
これは、1つ目の「全てをお金に結び付けて考える」ことと矛盾するかもしれません。もう完成しているのだから、時間をかけないほうがいいと考える人もいるでしょう。
ただ、私の経験上、ゆったりと読み返したときに誤解を招く恐れのある表現を見付けたり、より的確な言葉を思い付いたりすることが、思った以上に多いのです。私は良い訳語が思い浮かばないとき、トイレに座ってみます。そうすると、不思議なことに、妙訳が頭に浮かんでくるのです。
これは、5分や10分のアディショナルタイムを惜しんでいてはできないことです。私は時間の許す限り、質を高める最後の悪あがきまでしようと決めています。ですので、頼まれない限り、納品を前倒しすることはほとんどありません。
それは効率の悪いことかもしれません。自分の収入を時給換算したらとてつもなく低くなるかもしれませんが、そんなことはお構いなしに、自分の納得いくまで、納期のギリギリまで質を追求していこう思うのです。
「効率から質が生まれるとは限らない」ということに気付いたからです。そして、奇麗に言えば、質に対して本気で責任を持てるようになったのかもしれません。時間と効率に追われていた会社員時代とは真逆です。
以上が、私が翻訳者として独立する前と後で変わったことの3つです。
最後におさらいすると、
1. 全てをお金の価値に結びつけて考えるようになったこと
2. 人とのつながりを最優先にするようになったこと
3. 効率より質を優先するようになったこと
いかがでしょうか。共感していただけた部分はありましたか。これから独立を考えている方、独立したけれども何か迷いを抱えているという方などの参考にもなれば幸いです。
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