連載「翻訳者のスキルアップ術」の第4回のテーマは、「外国語ができれば翻訳、通訳の仕事はできるのか」。翻訳者の丸山清志さんは「言語力は翻訳、通訳者に必要な能力の氷山の一角」と言います。では、この仕事で真に求められる力とは?
翻訳、通訳者が最も困る依頼とは?
「この文章、軽くでいいから訳してくれない?」
「〇〇円しか払えないんだけど、その範囲でできる通訳をしてくれませんか?」
「ちゃんと訳さなくていいので、概要だけ教えて」
私たち翻訳、通訳者は、こんなお願いをされることがよくあります。そして、こういうことをお願いされると、私はとても困ってしまいます。
それのどこが悪いの?何が困るの?英語がペラペラなら簡単でしょ?ベテラン翻訳者でしょ?と、心の中で思った人もいらっしゃるかもしれません。「そんなちょっとしたお願い事なら受けてあげればいいのに・・・」と、こっちが心の狭い人みたいに言われたこともあります。
今回、私がここで連載をさせていただくことになり、自分の知り合いも含めて告知したときにも、早速そんなお願いが3件ほど入りました(そういう依頼は、意外にも身近なところから来ることが多いのです)。
まずは誤解を解いておきたいのですが、翻訳や通訳の作業は、残念ながらそれほど簡単ではありません。学校のテストで英文和訳の問題を解くように、その字面だけを見て正確に訳せばいいという単純な作業ではないのです。
もちろん、これら3件の依頼は仕事として正式にお受けするか、丁寧にお断りさせていただきました。
もう一つ、よく言われることは「海外旅行に一緒に行きたい!」です。
仲良しの人や愛する人と一緒に純粋に旅行するのならいいのですが、多くの場合、このウキウキした悪気のない発言の背後には「通訳してもらえるから便利そう、楽しそう」というしたたかな狙いがあります。
これは、私が2人の友達(?)とヨーロッパ旅行をしたときの、恐ろしい実話です。
私は、四六時中、話しっぱなしでした。食事に行けば注文は私。宿泊の予約や列車の切符の手配も私。買い物にもべったりと付き合い、値切る交渉や好みの説明など全て私の「仕事」でした。揚げ句の果てに、うまく伝わらないときには不満をぶつけられ、険悪ムードのまま夕食・・・。
海外旅行には、個人的にあまり良い思い出がありません。
言語力は翻訳、通訳者に必要な能力の氷山の一角
翻訳や通訳ができるのは、2つの言語ができるからではありません。
もちろん、言語ができるということは大前提です。しかし、「言語ができる」というのは、翻訳、通訳者のほんの一面でしかありません。いわば氷山の一角です。
言葉のやりとりの背景には、その話題に関する知識が必要不可欠です。何も知識がない話をいきなり出されても、何のことを言っているか分かりません。分からなければ当然、別の言語に変換することもできません。
機械翻訳がときどきトンチンカンな訳をするのは、背景知識に関係なく自分の持っている知識だけで言葉を(巧みに)置き換えてしまうからです。
たとえば、「future」という単語には「未来」「将来(性)」「今後」「先行き」「将来像」「未来自制」「先物取引」(参考:英辞郎 on the WEB)とさまざまな訳語がありますが、この中からどれをその場面のfutureに当てるかは、それが何の話題なのか、話の流れから瞬時に判断した上で選択することになります。
単語1つを取っても背景情報が不可欠であり、これが1文、パラグラフ全体ともなれば、膨大な知識や情報が必要となります。「できる範囲でいいから」と言われて、「先物取引契約」という意味の「futures contract」を「未来の契約」などと訳したら、まるで違う話になってしまいます。
どんなに小さな仕事でも背景情報は必要で、関連情報を調べたりアイデアを絞り出したりして文章を組み立てるのには、それなりの労力を要します。1文だけポンと渡されて、それだけを訳するのは、一か八かのギャンブルです。言葉が完璧にできるだけでできる仕事ではありません。
通訳もしかりです。
同時通訳ならばなおさらですが、普通の通訳(逐次通訳)でも、専門的なスキルの訓練がかなり必要です。プロになるまでの過程で、既にかなりの時間と資金がつぎ込まれています。
また、会議であろうが観光であろうが、通訳の仕事をするときには事前準備が必要です。毎日同じ仕事をしていれば、それなりに慣れてきて、準備に要する時間も少なくなっていきますが、初めての仕事であれば、それが自分の専門分野であっても、相手のことや今の傾向などを含め、さまざまな情報を頭の中に入れてから現場に行く必要があります。
通訳の仕事は、ただ自分の母国語で好きなことをペラペラしゃべるのとはわけが違います。耳から1つの言語をインプットして理解しながら、口からは別の言語でほぼ同時進行的にアウトプットするのです。
どれくらい大変かというと、右手で四角(□)を描き、同時に左手で三角(△)を描くような感じです。片手ずつやるのは簡単ですが、それを同時に両手でやると一気に難度が上がります。
例えが分かりづらいですか?要するに、それだけ大変な仕事だということを言いたいのです。20分やるだけでも、疲れ果ててしまいます。
また、半分手を抜いて半額分の仕事しかやらない、というわけにもいきません。
プロのピアニストに対して、「ギャラを半額しか支払えないので、半分手を抜いて弾いてください」とは言えませんよね。それでは、プロのピアニストに演奏してもらう意味がなくなります。上質の演奏を聴きたくてお願いするわけですから。
プロの翻訳者に頼むのも、それなりの意図があると思います。間違った解釈をしては困るとか、プロの表現力を使いたいとか、頼む理由があります。そこまで必要ないというのであれば、翻訳を生活の業としていない人や、機械翻訳に頼んでしまえば済む話です。
私たちプロの翻訳、通訳者に関していえば、幸い、翻訳の場合は対象の単語数(文字数)を基準に、通訳の場合は働く時間を基準に報酬を頂くことが一般的です。
予算が限られている場合は、仕事の質を落とすように依頼するのではなく、仕事量を減らしていただければ、ご希望の予算内に収めることができるかもしれませんので、ぜひ、そのようにご検討ください。
ただし、最低限の勉強をしたり基本的な情報を調べたりする作業が必ず伴いますので、最低限の料金を頂くこともありますが、そこはご了承ください。
翻訳者・通訳を目指す人が本当にやるべき準備とは
先にも書いたように、翻訳も通訳も、言語的な能力やスキルはその仕事の氷山の一角に過ぎません。
翻訳者や通訳になるためにどんな準備や勉強をしたらいいかを考えるとき、語学スキルのレベル(つまり、英検〇級やTOEIC〇〇〇点など)に焦点が当てられがちですが、私に言わせれば、翻訳や通訳の実務では言語以外の面での知識や技能、経験の方がはるかに重要であり、その点で苦戦している人が多いような気がします。
翻訳・通訳にはさまざまな分野の仕事がありますが、それぞれの分野に特有の用語や表現方法、傾向などがあり、その時点での生きた言葉を使わなければ、現場では役に立ちません。
外国語を和訳する場合、原文は現地の用語やスタイルになっているわけですから、それを日本の用語やスタイルに置き換えなければなりません。その作業も翻訳者の仕事になります。よって、自分の担当する分野の事情にも精通している必要があります。
ビジネスレターの翻訳をしたければ、まず自分でビジネスレターが書けなければなりません。契約書の翻訳をしたければ、両国の契約書にどのような言葉が使われるかを知り、さらに両国の契約書の要件にどのような違いがあるかを理解することも大事です。
翻訳のチェックの仕事をしていると、たまに契約書なのに小説のようなドラマチックな展開の訳文を頂いて、ちょっとあぜんとしてしまうことがあります。
私が普段、仕事をしているときは、翻訳をしているというよりは、代筆しているという感覚です。私が書いた訳文を読む人には、あたかも原書を書いた本人が書いたもののように読んでもらわなければならないわけで、私(丸山清志)であることを悟られないように書くように心がけます。言ってしまえば、ゴーストライターです。
通訳の場合も、その分野のことをある程度理解して、議論ができるようになるまでの知識を身に付けておかなければなりません。
自分が何も知らないことについて話す2人(依頼人)の間では、話についていくことはできません。自分の全く興味のないマニアックな趣味の話をしている友達の会話についていけず、ポツンと取り残されてしまうような経験をしたことがある人もいらっしゃるかと思います。そういう感覚です。知らないと、言葉は1つも出てこないものです。
翻訳、通訳で最も大事なことは、その分野のことを、100%とは言わないまでも、70~80%理解していることです。
これが、実際に仕事をする前の準備となります。仕事の依頼を受けてから、基礎から勉強していたのでは、とても間に合いません。
そう考えると、プロとして(お金を稼ぐために)翻訳、通訳をするには、ある程度、自分の専門分野を絞る必要があることがお分かりいただけると思います。幾つもの分野に精通するのは、とてもできることではありません。
一方で、そこまでの知識が必要でない仕事ならば、プロが出る幕でもないわけです。
仕事の現場にいるということはそういうことであり、翻訳、通訳者に求められることは、言葉が完璧に理解できるということよりも、むしろ話題についてこれることです。そして、翻訳・通訳の仕事とは、発注者の代弁者になることとも言えるかもしれません。
文中写真:Andrea Spallanzani, Erika Varga from Pixabay