
翻訳家の柴田元幸さんが、英米現代・古典に登場する印象的な「一句」をピックアップ。その真意や背景、日本語訳、関連作品などに思いを巡らせます。シンプルな一言から広がる文学の世界をお楽しみください。
Mistah Kurtz — he dead.アフリカの奥地で象牙を採集し、地元民から神のように崇めら れるに至る白人カーツ。植民地 搾取の権化のようでもあり、と 同時に 、アフリカの闇のみならず自 分の心の闇まで見通した、ある種の崇高さをたたえているようでもある人物。題名のHeart of Darknessとは、「暗黒大陸の奥」 という意味である以上に、「人間 精神の奥にある闇」の意である。—Joseph Conrad, Heart of Darkness (1899)
そうした等身大以上の人物カーツが、“ The horror! The horror!”と、恐怖と絶望の(ど うにも訳しようのない)呟きとともに死んでいき、その死を現地の少年が、“in a tone of scathing contempt ” (痛烈な軽蔑の口調で)報告する。それが上の一言である。神は失墜したのだ。 Mister がMistahと訛り、heとdeadのあいだのisも落ちている。誤った英語がこれほど烈(はげ)しい辛辣さを伝える例はちょっとない。20世紀初頭に広がっていた「西欧文明の死」という気分を生々しく伝える T・ S ・エリオットの詩 “ The Hollow Men”(うつろな人々、1925)でも、この “Mistah Kurtz ̶ he dead.”が巻頭句に使われている。それほどこの一言は、 時代の気分を言い表わしているように響いたのだろう。
オーソン・ウェルズといえば名画『市民ケーン(1941)』で知られるが、ウェルズが『市民ケーン』の前に映画化しようとして果たせなかったのがこの『闇の奥』だった。試しに撮ったショットもすべて失われているが、ウ ェルズは映画の前にラジオドラマを作っていて(一番有名なのは、火星人到来の「報道」があまりにもリアルだったので一部の聴取者がパニックに陥ったといわれるThe War of the Worlds〔宇宙戦争〕だろ う)、『闇の奥』もドラマ化されて 緊迫感ある劇に仕上がっているが( http://sounds.mercurytheatre.info/mercury/381106.mp3 )、残念ながら“Mistah Kurtz ̶ he dead.” の一言は省かれている。
ウェルズが果たせなかったことを、およそ40年後にフランシス・コッポラが果たした。『闇の奥』の舞台をベトナム戦争に移して、Apocalypse Now (『地獄の黙示録』、 1979)を撮ったのである。映画の中で、ベトナムの奥地に住みついたカーツ大佐( Colonel Kurtz)がエリオットの “The Hollow Men” の冒頭を朗読するシーンがあるが、さすがに巻頭句の “Mistah Kurtz ̶ he dead.” は読んでいない(読んだら世紀の 爆笑シーンになったと思うが)。
『闇の奥』はナイジェリアの作家チヌア・アチェベに、 アフリカ人をもっぱら未開の「闇」の生き物としてしか描いていない、と痛烈に批判されたが、『地獄の黙示録』 もベトナム系アメリカ人作家リン・ディンが、ベトナム をジャングルとしてしか描かず現実をまったく見ていない、と罵倒していた。部外者は「アフリカ/ベトナム の闇が人間精神の闇を雄弁に象徴している」などと呑気に言えるわけだが、「闇」のレッテルを貼られる側から見れば― “Mistah Kurtz ̶ he dead.”と 言わされる 側から見れば―全然違う話なのだ。
柴田元幸さんの本
1954(昭和29)年、東京生まれ。米文学者、東京大学名誉教授、翻訳家。ポール・オースター、スティーヴン・ミルハウザー、レベッカ・ブラウン、ブライアン・エヴンソンなどアメリカ現代作家を精力的に翻訳。2005 年にはアメリカ文学の論文集『アメリカン・ナルシス』(東京大学出版会)でサントリー学芸賞を、2010年には翻訳『メイスン&ディクスン(上)(下)』(トマス・ピンチョン著、新潮社)で日本翻訳文化賞を、また2017年には早稲田大学坪内逍遙大賞を受賞。文芸誌「MONKEY」(スイッチ・パブリッシング)の責任編集も務める。
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