“I would prefer not to.”【英米文学この一句】

翻訳家の柴田元幸さんが、英米現代・古典に登場する印象的な「一句」をピックアップ。その真意や背景、日本語訳、関連作品などに思いを巡らせます。シンプルな一言から広がる文学の世界をお楽しみください。

I would prefer not to .

?Herman Melville, Bartleby, the Scrivener: A Story of Wall-Street (1853)

まだコピー機もない19世紀なかば、たとえば法律文書の写しが欲しければ人間が書き写すしかない。そこで “scrivener”(書写人)という職業が当時は存在した。ハーマン・メ ルヴィルの有名な短篇「書写人バートルビーウォール街の物語」は、謎の書写人バートルビーが、はじめは猛烈なスピードでコピーしまくるのだが、あるときから “I would prefer not to .” と言ってコピーを拒むよう になり、その他いっさいの仕事も拒み、最後には食べることも拒んで死んでいくという不思議な話である。

“I would prefer not to .” または単に “I prefer not to .” というのは、丁寧なようでいてむしろ拒絶感がしっかり伝わってくる断り方である。文脈にもよるだろうが、“I prefer not to say anything.” は「発言は控えさせていただきます」という感じだし、“I prefer not to know.” といえば、そういう不愉快なことは知りたくな い、という気持ちが伝わってくる。管理職の人は部下にこう言われたら、どういう気がするだろうか。君これやってくれ、と頼んで “I don’t want to do it.” などと答えが返ってきたら「ふざけるな」と言い返せるだろうが、“I would prefer not to .” と言われると、なんだかとりつく島がなさそうである。「やりたくありません」 ではなく「やらない方が好ましいのです」。そしてこの バートルビーの雇用主は、バートルビーにまさにこう言 われて何ともとりつく島がなく、バートルビーがなぜ仕事を拒絶するのか頭を抱え、今日に至るまで読者も一 緒になって頭を抱えてきた。

なぜ拒絶するのか、わからないのだけれど、読んでいると、拒絶にはなぜか必然性があるような気にさせられるし、かつ、 わからなくてはいけないのではないか という気にもさせられる。どうしてそうなるのか、 本当に不思議なのだけれども、その不思議さに惹かれて、人はこの小説を何度も読み返す。

昨年5月号では同じメルヴィルの Moby-Dick(『白鯨』 1851)を取り上げた。あの大長篇の主人公(の一人)エイハブ船長 は白い鯨を追って七つの海を旅するが、こちらの書写人はまったく動かなくなって死んでいく。移動と不動の 両極端。エイハブは世界が謎であることに耐えられな いが(設定としては脚を食いちぎられた鯨に復讐する ということになっているが、それ以上に白い鯨は、世界 の不可知性の象徴である)、バートルビーは本人の存在そのものが謎である。

とはいえ、バートルビーを、壊れたコピー機と考えればどうだろう。コピー機が突然動かなくなるときに機械から漂ってくる、あの拒絶感。バートルビーが発散 している拒絶感もまさにあれではないか。この着想から、そうした機械に縛りつけられて生きている現代人の状況をあざやかに論じたのが、伊井直行の『会社員 とは何者か?』(講談社、2012)である。この卓抜な 論を得て、“I would prefer not to .” に頭を抱えるだけの事態から、ひとまず我々は解放された―コピー機に限らず、もろもろの機械に縛りつけられた日常は依然続いているとしても。

柴田元幸さんの本

ぼくは翻訳についてこう考えています -柴田元幸の意見100-
文:柴田元幸

1954(昭和29)年、東京生まれ。米文学者、東京大学名誉教授、翻訳家。ポール・オースター、スティーヴン・ミルハウザー、レベッカ・ブラウン、ブライアン・エヴンソンなどアメリカ現代作家を精力的に翻訳。2005 年にはアメリカ文学の論文集『アメリカン・ナルシス』(東京大学出版会)でサントリー学芸賞を、2010年には翻訳『メイスン&ディクスン(上)(下)』(トマス・ピンチョン著、新潮社)で日本翻訳文化賞を、また2017年には早稲田大学坪内逍遙大賞を受賞。文芸誌「MONKEY」(スイッチ・パブリッシング)の責任編集も務める。

※本記事は『ENGLISH JOURNAL』2020年1月号に掲載された記事を再編集したものです。

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