翻訳家の柴田元幸さんが、英米現代・古典に登場する印象的な「一句」をピックアップ。その真意や背景、日本語訳、関連作品などに思いを巡らせます。シンプルな一言から広がる文学の世界をお楽しみください。
There is no place like home.実のところ、小説だけだったら、この一 句はそれほど有名にはならなかっただろう。なんといっても映画版『オズの魔法使』 で、ドロシーがカンザスへ帰るための呪文として使われたことで、『オズ』といえば「わが家にまさるところなし」を誰もが思い浮かべるようになった。この「わが家志向」の一句と、“ Over the Rainbow”(虹 の彼方に)という「旅立ち志向」の一句 を組みあわせたところに映画版の慧眼(けいがん)がある。?L. Frank Baum, The Wonderful Wizard of Oz (1900)
しかし、L・フランク・ボームによる原作の魅力も格別で ある。映画ではだいぶ人間化されている the Scarecrow (かかし)や the Tin Woodman(ブリキの木こり)や the Cowardly Lion(弱虫のライオン)が、原作では文字どおり、 かかし、ブリキの人形、ライオンとして出てくるわけで、読んでいて頭のなかに浮かんでくる情景は相当にシュールで ある。脳味噌がないのにけっこう賢いかかし、心がないのにすごく優しいブリキの人形、そして実は案外勇敢なライオン・・・彼らとドロシーとの会話が何といっても秀逸である。たとえば “There is no place like home” という言葉を(映画 よりずっと目立たない形で)ドロシーが口にするシーンは:
The scarecrow listened carefully, and said, “I cannot understand why you should wish to leave this beautiful country and go back to the dry, gray place you call Kansas.”かかしはじっくり聞いていたが、やがて言った。「わたしにはわかりませんね。どうしてあなたがこのきれいな国を離れて、そのカンザスっていう、乾いた灰色の場所に帰りたいのか」
“ That is because you have no brains,” answered the girl. “ No matter how dreary and gray our homes are, we people of flesh and blood would rather live there than in any other country, be it ever so beautiful. There is no place like home.”「それはあなたに脳味噌がないからよ」とドロシーは答えた。「どんなにわびしくて灰色でも、あたしたち血と肉でで きた人間は、自分の家に住みたいと思うものなのよ。よその国がどれほどきれいでもね。わが家にまさるところなし、よ」
The Scarecrow sighed. “ Of course I cannot understand it,” he said. “If your heads were stuffed with straw, like mine, you would probably all live in beautiful places, and then Kansas would have no people at all . It is fortunate for Kansas that you have brains.”―と、脳味噌の理不尽さを皮肉るかかし。でも彼は脳味 噌が欲しいのだ!こういう矛盾が『オズ』の深さである。かかしはため息をついた。「もちろんわたしにはわかりません」かかしは言った。「も しあなたがたの頭にも、わたしみたいにわらが詰まってた ら、みなさんきっときれいな場所に住んで、カンザスには 誰もいなくなるでしょうよ。あなたがたに脳味噌があって、 カンザスには幸いですよ」
さて、“There is no place like home” というフレーズ、 実は『オズ』の独創ではない。日本では「埴生(はにゅう)の宿」として知られている1823 年作の歌 “Home, Sweet Home” に“Be it ever so humble, there’s no place like home”と いう一節があるのだ。「せまいながらも楽しいわが家」と 訳したくなるが、これは別のわが家志向の名曲 “My Blue Heaven”(私の青空)の堀内敬三による名訳詞の中の一句。
柴田元幸さんの本
1954(昭和29)年、東京生まれ。米文学者、東京大学名誉教授、翻訳家。ポール・オースター、スティーヴン・ミルハウザー、レベッカ・ブラウン、ブライアン・エヴンソンなどアメリカ現代作家を精力的に翻訳。2005 年にはアメリカ文学の論文集『アメリカン・ナルシス』(東京大学出版会)でサントリー学芸賞を、2010年には翻訳『メイスン&ディクスン(上)(下)』(トマス・ピンチョン著、新潮社)で日本翻訳文化賞を、また2017年には早稲田大学坪内逍遙大賞を受賞。文芸誌「MONKEY」(スイッチ・パブリッシング)の責任編集も務める。