“Reader, I married him.” “Nelly, I am Heathcliff.”【英米文学この一句】

翻訳家の柴田元幸さんが、英米現代・古典に登場する印象的な「一句」をピックアップ。その真意や背景、日本語訳、関連作品などに思いを巡らせます。シンプルな一言から広がる文学の世界をお楽しみください。

Reader, I married him.

?Charlotte Bronte, Jane Eyre

Nelly, I am Heathcliff.

?Emily Bronte, Wuthering Heights

姉シャーロット・ブロンテの 『ジェーン・エア』は 1847年 10月刊、妹エミリーの『嵐が丘』 は同年12月刊。その後世界的 に読まれることになる二作は、 ヨークシャーの片田舎にひっそり暮らす姉妹によって書か れ、ほぼ 同時に 刊行された。 女性名で出すと低く見られると考えて、『ジェーン・エア』の著者は Currer Bell、『嵐 が丘』は Ellis Bell、と男性の名で出した。当初はこの二人、 同一人物ではないかという声もあったようである。

正直な話、こんなに違う二作を同じ人間が書いたと 考えた人がいたとは驚きである。その違いは、それぞれの作品のもっとも有名な一言に如実に表われている。「読者よ、わたしは彼と結婚した」。貧しい家庭教師 のジェーンは紆余 (うよ)曲折を経て、元の雇用主エドワード・ ロチェスターと結ばれる。 展開 としてはシンデレラ・ストーリーの典型とも言えるわけだが、そうした流れ を締めくくる一言の、なんと非ロマンチックなことか。We got marriedでもなくI married Edwardでもなく I married himという事務的な言い方。〈わたしが─彼 と─結婚する〉。女性にほとんど主体性など許されない社会のなかで、極力主体性を貫いて生きるジェーンに相応しい一言である。

「ネリー、わたしはヒースクリフそのものなのよ」。それなりに地位のある家に育ったキャサリンは、出自も定かでないヒースクリフを捨てて、裕福なエドガーと結婚することに決めながらも、乳母にそう打ちあける。社会制度としての結婚などよりはるかに深い、(身も蓋もない言い方ですが)魂の次元でキャサリンはヒースクリフとつながっているのだ。

ジェーンがロチェスターと 結ばれる上での最後の「障害」 は、ロチェスターの妻であり 屋根裏に閉じ込められた狂女であるバーサだった。ドミニ カ出身の20世紀作家ジーン・ リースはこの設定に反発し、ジャマイカで育った娘アントワネットが「狂女バーサ」に仕立て上げられるまでをたどる、『ジェーン・エア』の前日譚(ぜんじつたん)『サルガッソーの広い海』(1966)を書いた。

こちらはそういう意図的な書き直しではないが、『嵐が丘』と、スコット・フィッツジェラルドの『グ レート・ギャツビー』(1925)とのつながりも興味深い。素性の知れぬ男を、金持ちの女性が(男に惹かれ つつ)拒み、男は怪しげな営みで富を築いて戻ってくる。そのあたりまではよく似ている。が、ギャツビーとデイジーのあいだに、ヒースクリフとキャサリンのあいだにあった魂の結びつきがあるかというと……。

『ジェーン・エア』は英国的な抑制を身上とする書き手カズオ・イシグロを深く感化した。『嵐が丘』は アメリカ的に奔放な幻視力を駆使するスティーヴ・エ リクソンに等しく大きな霊感を与えた。むろん、どっちがいいという話ではない。ロンドンの文壇とは遠く離れた荒涼たるheath(荒れ野)で両極端の小説が書 かれたことを、我々は素直に祝福すればよい。

柴田元幸さんの本

ぼくは翻訳についてこう考えています -柴田元幸の意見100-
文:柴田元幸

1954(昭和29)年、東京生まれ。米文学者、東京大学名誉教授、翻訳家。ポール・オースター、スティーヴン・ミルハウザー、レベッカ・ブラウン、ブライアン・エヴンソンなどアメリカ現代作家を精力的に翻訳。2005 年にはアメリカ文学の論文集『アメリカン・ナルシス』(東京大学出版会)でサントリー学芸賞を、2010年には翻訳『メイスン&ディクスン(上)(下)』(トマス・ピンチョン著、新潮社)で日本翻訳文化賞を、また2017年には早稲田大学坪内逍遙大賞を受賞。文芸誌「MONKEY」(スイッチ・パブリッシング)の責任編集も務める。

※本記事は『ENGLISH JOURNAL』2019年8月号に掲載された記事を再編集したものです。

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