ENGLISH JOURNAL ONLINE

「絵を見て想像して言葉を紡ぐ」!英語で文芸創作に挑戦してみよう!

英語で文芸創作に挑戦!絵を見て言葉を紡いでみよう

連載「クリエイティヴ・ライティング入門講座」では、立命館大学の吉田恭子さんが、英語で書く文芸創作エクササイズを出し、読者の皆さんに実際にクリエイティヴ・ライティングに挑戦していただきます。さらに、応募作品の一部を吉田さんが記事内で講評してくださいます。英語での表現力を広げるチャンスです!ぜひチャレンジしてみてください。

第1回の応募作品の中から作品を講評

この連載は、短い英文創作のエクササイズに挑戦して、母語以外の言語で創作する楽しみを体験してもらうという企画です。読者の皆さんの投稿を毎回紹介します。

前回の課題は、まず一人称過去形で自分の最初の記憶を書きとめ、続いて、創作された細部を交えながら改変した記憶を三人称過去形で語り直してもらうというものでした。わずか200〜300ワードの文章なので、起承転結を詰め込むことはできません。それだけで完結した「物語」になる必要はなく、あくまでも一場面であり、物語を呼び込むきっかけとしての何かを言葉で立ち上げることができるぐらいの語数です。

今回20作の応募があり、一読して8作に絞り込んだのですが、そこから掲載作品を選ぶのは至難の業でした。英語の流ちょうさを評価するのでも、発想の奇抜さやまとまりのよさを競うわけでもなく、今回は「物語のきっかけ」という視点でまっくすさんの作品を選びました。

まっくすさん

The sun had already set, and Mai was alone with her nursery teacher in the dimly lit teachers’ office filled with empty chairs and tables. There was no sound, no noise; emptiness permeated the whole facility.

It was already 7:30 pm; Mai’s mother was late, again. Where was she now, what was she doing? Why couldn’t she do her job, her one job, as a housewife? Poor Mai, patiently waiting for her when everyone else had been picked up and gone home, safe and sound. Good girl; the teacher rewarded Mai with a piece of candy.

Little to her knowledge, Mai, a 5-year-old girl, cherished each moment of this temporal abandonment. Sucking on the grape-flavoured candy in her mouth, Mai was enjoying the privilege of being orphaned; in this nursery  – mind you  – no sweets were allowed in the daytime. The candy not only tasted of grape, but also a sense of special attention, a guilty pleasure. What Mai needed was that magic candy, not her mum; recently, she couldn’t help but notice that all she could see in her mother’s eyes was fear and emptiness. Eyes that did not reflect Mai back.

Next to the worried teacher, she played with the little ball of sweetness in her mouth, with such care that she could be out of time as long as she wanted.

保育園で母親のお迎えを待つ子ども。ひとりまたひとりと去っていくごとに、友達から取り残されたような、母親に見捨てられたような、うら寂しい気持ちが募ります。そして空っぽの保育園に最後のひとりが残されたところで、作品は始まります。職員室にひとりだけ残された5歳のマイは、母親への不満や不安を募らせますが、先生がくれたあめ玉が、 “the privilege of being orphaned”(親に見捨てられた恩恵)となり、その口に広がる甘さをいつまでも味わっていたい、親に見捨てられたという甘美な夢に浸っていたいと感じるようになる、という意識の変化を描いた作品です。

冒頭は無駄がなく、保育園に先生とふたりだけの子どもの心細さが簡潔な言葉で伝わってきます。母親の不在を不当と感じる気持ちは5歳児らしい自己中心性があって信憑(ぴょう)性が感じられます。そんなマイの意識がたったひとつのあめ玉によって鮮やかに変化するのがこの作品の見どころです。あめ玉は、普段はみんなのものである先生がこの瞬間だけは自分だけのものになった証し、自分だけのものであるはずの母親に見捨てられたがゆえに訪れた幸運です。と同時に、その甘さが与える “guilty pleasure”(後ろめたい喜び)は、幼子が初めて味わう複雑な感情でもあります。この瞬間にマイは孤独を発見したともいえるでしょう。単純にネガティブな感情とは違う、寂しいけれども内面世界と向き合える自分だけの時間を引き伸ばすために、マイはあめ玉を口の中で慎重に転がします。あめの甘さと新しく発見した甘美な空想の世界とがマイの中ではつながっているのです。

“the privilege of being orphaned”は、5歳児の視点から見ると普段もらえないお菓子をもらえたことを指しますが、ここで “orphan” という表現を使うことで、この作品はさらなる広がりを見せています。自分は本当は孤児なのだ、という空想は、子どもが親から独立した自己意識を確立していく過程で生み出すファンタジーであり、例えばシャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』やチャールズ・ディケンズの『オリバー・ツイスト』やジーン・ウェブスターの『あしながおじさん』のような少年少女の成長物語で繰り返させるモチーフでもあるのです。つまり、マイの自意識発見の瞬間は物語の種を内にはらんでいるのです。

ぼんやりした記憶をどう言葉にするのか?

最初の記憶は、一部を鮮明に記憶している場合でも、その他の部分がぼんやりしていたりして、茫洋(ぼうよう)としているものです。この曖昧模糊(もこ)とした感じは、単にすべてを完璧に思い出せないがゆえではないでしょう。最初の記憶は私たちの自我形成とつながっています。自分がひとりの自分であること、あるいは他者が存在すること、父母に囲まれた世界の外にさらに未知の世界があること、自分に身体や感情があること・・・そういった発見や認識と切り離すことができません。かといって幼いためにはっきりとその感覚を言語化・分析することもできない――それがゆえにいっそうぼんやりと感じるのです。

一人称で書きとめた記憶の断片を三人称で書き直すことは、一見茫洋とした経験を客観的に書き直す作業に見えます。けれども、この「ぼんやりしていながら何十年後にも記憶によみがえる何か」こそが最初の記憶の本質だとすると、その雰囲気や意識の主観的なありようをいかに言葉で表現するかが課題となるでしょう。実際、応募作はこの「もやもやした意識」に焦点を合わせた作品が大半でした。

どのように「語り」を調整するか

このように視点の扱いは小説の書き手にとっては最も大切な決定事項です。同じ物語でも一人称で語るのと、三人称で語るのとではがらりと印象が変わります。また、同じ一人称でも語り手が主人公の場合(ダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』など)と、脇役で傍観者的な場合(スコット・F・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』の中でジェイ・ギャツビーについて語るニック・キャラウェイなど)とでは、まったく小説世界へのアプローチが異なります。

三人称に至っては、誰の目にも見えることや誰の耳にも聞こえることのみを報告する「演劇的な視点」や、特定の人物のみに焦点を絞った「限定された視点」、世界の俯瞰(ふかん)もできれば、すべての人物の内面もつまびらかにできる「全知の視点」など、多様なバリエーションがあり、しかもこれらの視点を融合して小説の語りは通常成り立っているので、無数の調整が可能です。

前回のエクササイズは、言い換えるならば、語り手が主人公の一人称の語りから、三人称に変換するにあたり、どのように語りを調整するか、という課題でもありました。もちろんこれという正解があるわけではありません。

三人称の視点の調整はしばしばカメラの位置に例えられます。けれども、カメラはどれだけ肉薄しても対象の外側しか捉えることができません(もちろん、外面はさまざまなかたちで内面を映し出してはくれますが)。対象人物の心情に寄り添い、内面を描き出すには、単に距離を縮めて人物の心情を明かすだけでなく、その言葉遣いに注意を払う必要があります

言葉遣い――これは英語の文芸創作の現場でしばしば「声(ヴォイス)」とも呼ばれるものに重なりますが、「声」は一人称の語り手の言葉が醸し出すキャラクターなどにも使われるので、ここでは「言葉遣い」と呼ぶことにしましょう――言葉遣いとは、さまざまな言語的要素についてそれぞれ作者が(意識的・無意識的に)判断し取捨選択して出来上がった総合物です。

ここでまっくすさんの作品に立ち戻ってみましょう。外面的には、仕事に追われる母親に取り残された、見るからに「かわいそうな保育児童」がいて、彼女に同情する保育園の先生がおしゃぶりの代替物であるあめ玉をその場しのぎにあげたところ、むずかる幼児がなだめられた、と要約できるかもしれません。でもそれではまるっきり作品の肝心の部分を無視した要約です。この作品でいちばんスリリングな箇所は5歳の中心人物マイの心の中で起こっているドラマなのですから。

マイの視点から全体を見直してみましょう。第1段落では、日が暮れて空っぽの職員室に先生とふたりぼっちのマイが描かれます。保育園の先生には名前がありません。マイは5歳なので、普段まわりにいる大人を個別に認識できるけれども、かといってその役割分担を抽象化することもしません。彼女にとってこの大人の女性は「保育園の先生」ではなく、「みよこせんせい」とか「松田先生」とか「せいたかサイトウ先生」(ほかに「ちいさいサイトウ先生」もいる)とかでしょう。

椅子やテーブルが「空っぽ」なのは具体的にイメージも湧くし、シンプルかつ的確にマイの寂しさを表しています。 “There was no sound, no noise” とありますが、先生とマイはふたりっきりで無言で座っているのでしょうか?それとも先生は事務仕事をしていてマイに構っていないのでしょうか?だとしたらどんな音が聞こえてくるでしょう?

段落最後の文、“emptiness permeated the whole facility” をあえて日本語に訳すと「空虚が施設全体に充満していた」という感じでしょうか。寂しさを強調しまとめる締めくくりの文ですが、マイよりもより高次元な思考の持ち主を感じさせる言葉遣いです。例えば、「空っぽの椅子やテーブル」で使われた形容詞 “empty” をあえて “emptiness” と、抽象名詞化していますね。繰り返しは大切な詩的修辞法ですが、せっかくの、シンプルで強いインパクトのある古英語由来の形容詞を、抽象名詞化・希薄化してしまうのはもったいないと感じてしまいます。セミコロンについても同様です。セミコロンという選択は流ちょうさや洗練を示唆します。マイの気持ちに寄り添う言葉遣いを実現するためには、あえてそういった技巧を使わないのも選択肢でしょう

続いての段落は、マイの心の中を表現したものと解釈できます。三人称ですがマイの心の声を半ば直に再現するような、自由間接話法を用いて表現されています。自分のためだけに存在してくれない母親を責めるマイの気持ちは、自己中心的で幼児らしさが感じられ信憑(ぴょう)性があります。けれども同時に、「もう7時半だ」や「家庭の主婦としての仕事」という表現に着目して見直すと、この段落で描かれているマイの気持ちは大人の視点を通した「代弁」である印象も受けます。

私たちは誰でも、大人になって身に付けた「常識」で子どもの頃の記憶を編集しています。マイの気持ちも大人視点の語りもどちらも作者の中から等しく生まれたものだけに、それを真と見なしがちです。一方で子どもの頃の自分と大人の自分は別人でもあります。大人の視点による上書きの誘惑に耐えて、5歳のマイの心の中や意識を想像し、立体感と陰影のある人物としてマイの内面を、言葉を駆使して新鮮な言葉の世界を創造する――言うことはやさしいですが、創作のいちばんの試練となる部分です。

“Poor Mai”から始まる文は「母親に忘れられたかわいそうな子」という第三者の感傷が表現されている箇所です。これは第3段落以降のマイの心の変化とのコントラストを生み出すことが目的とも読み取れますが、だとしたら、やはり大人の視点でなく、マイの心の中をのぞき見たいところ。また、 “safe and sound” といった紋切り型も、 “Poor Mai” という猫なで声を髣髴(ほうふつ)とさせる口調と相まって、マイを「仕事に埋没するあまり主婦の役割を疎かにする大人のかわいそうな犠牲者」という型にはめ込もうとするふうにも解釈できます

続いての “Good girl” は保育士の先生のセリフだと思われますが、セミコロンがあるために少し判然としないところでもあります。マイの意識を通した世界という語りに徹するならば、ここであえて引用符を使わない選択は適切でしょう。例えば、 “Good girl, Mai.”とすれば、先生の発話であることがはっきりします。また、あめ玉を渡す大切な部分なので、段落を改めて独立させた方が際立つ箇所です。

第3段落の冒頭、 “Little to her knowledge” とあります。マイには大人の能弁な表現力はないかもしれませんが、その続きを読み進めると、マイ自身が「母親に捨てられた」という甘美な夢を味わう自分を意識していることは明らかです。そして、大人が押し付ける感傷を裏切って、そのような空想に浸る、孤独の悦楽を発見する5歳児の意識こそに、この作品の真実味が見いだせます。ですので、 “Little to her knowledge” というのは、正確ではないかもしれません。かといって、Maiで文を始めると唐突に聞こえるのも確かで、何かひと言入れたい気持ちはわかります。例えば、次の文の冒頭、 “Sucking on the grape-flavoured candy in her mouth” をここに持ってくることで、まずはあめ玉を読者にも味わってもらうのもひとつの手でしょう。

ちなみにマイが5歳であるという情報はこの作品で不可欠ですが、どこでどのような形で明かすべきなのか、悩ましいところですね。

第3段落前半の言葉遣いは5歳児の語彙ではありませんが、前の段落に比べるとマイの意識に寄り添いかつ無駄のない描写となっています。このように、5歳児の内面を描くからといって、徹頭徹尾5歳児の語彙と表現で書く必要はないのです。(そんなことをすると、かなりもってまわって実験的な文体になり、読者の忍耐を試す作品になるでしょう。それもひとつの選択ではありますが)。

第3段落の後半部分、 “mind you” は、意識の変化を新鮮な驚きでマイも読者も「味わって」いるせっかくのところに、視点の転換を強いて水を差す挿入句となっています。この文は保育園ではお菓子が禁じられていたという情報を提供して、直後のマイの “guilty pleasure” を補強する箇所なのですが、説明的でもありますね。もしかしたら、一文丸ごと削ってもいいかもしれません。代わりに、先生があめを渡すときのセリフを “Mai, this is just for you. Don’t tell anybody.” などとすることで、あめを許されることが例外的であることを匂わせるだけで充分かもしれません。

この作品は、能弁なイギリス英語話者のトーンで書かれています。おそらくそれが作者にとって最も安定して操作できる口調なのでしょう。自信を持って書ける言葉遣いを選ぶと作品に確実さや勢いや密度が備わります。

その一方で、言葉の選択や口調、癖、様式といった種々のマナリズムは、微細なニュアンス、すなわち、その言葉が使われる場所や時代、文化的背景、階級やジェンダーや民族といった属性を特定したり示唆したりします

マイの物語はいつ・どこが舞台なのか――そこに想像を向けると、日本や非英語圏での物語を英語で書く際に生ずる諸問題という、ここではとても論じきることができない大きな課題がたちまち沸き起こってきます。

けれども、私たちが英語で書くとは、そういった問題と対峙しながら試行錯誤することだろうとも思うのです。借りものの言葉を自分のものにしなおすこと――これは私たちが今初めて直面する障害ではなく、アイルランドを筆頭とする[元]英国植民地で新たな英語文学を創造してきた世界中の作家がずっと頭を悩ませ、挑戦し続けてきた難題でもあるのです。

さて作品に戻ると、その後、第3段落の終わりから結末にかけては、ここにいながらにしてここにいない心地に浸っているマイの感覚が焦点となります。そんな彼女には、この場にはいないお母さんどころか、隣りにいる先生のことも眼中にはないような気がします。そんなマイの中にどのような空想の世界や心象風景が広がっているのか――そのもやもやの奥に異世界への小さい入り口がある気がするのです。

今回の文芸創作エクササイズのテーマは?

本連載「クリエイティヴ・ライティング入門講座」では、皆さんに英語創作エクササイズに挑戦していただきます。応募作品の一部を吉田さんが選定し、次回の記事内で講評してくださいます!ぜひチャレンジしてみてください。

【課題】英語創作エクササイズ2「絵を見て言葉を紡ぐ」

今回は古典的なクリエイティヴ・ライティング課題の変形版。写真をじっくり眺めて想像したことを自由に描く課題は、レアード・ハントの『英文創作教室』でも登場する。英作文や日本語創作の課題で挑戦した人もいるかもしれない。今回は写真の代わりに、コミック作家ミシシッピさんによる一枚の絵を選んでみた。*1

課題画像

まずは鉛筆を置いて絵を眺めて絵の世界に入っていこう。そこから広がる想像を自由に言語化していこう。登場人物はいても、いなくてもかまわない。物語になるかもしれないし、世界の描写になるかもしれない人称は自由だが、現在形を使うこと。いきなり現在形で書くのが難しければ、まずは過去形で書いてみて、現在形に書き直してもいい。その過程で、現在形でできることと過去形でできることの違いにも気付けるかもしれない。絵をじっと見ているとあなたに乗り移ってくる、「場所の感じ」を掴んで言葉にしてみよう。

まずは自由な発想で課題にチャレンジしてみてください。どうしても難しいなあというときや、書き終わってから、ほかの例を見たいときには、以下の回答例を見てくださいね。

【参加方法】

課題に従って英語の文章を作成し、以下のGoogleフォームからご応募ください。

ご応募はこちら

【募集期間】

2021年4月21日~5月10日 ※募集は終了しました。

※2021年5月26日公開予定の次回の記事で、応募作品の一部について吉田さんが紹介し、講評します。

こちらの記事もおすすめ

ej.alc.co.jp

ej.alc.co.jp

ej.alc.co.jp

吉田恭子

吉田恭子(よしだきょうこ)立命館大学教授。英語で小説を書く傍ら、英語小説を日本語に、日本の現代詩や戯曲を英語に翻訳している。著書に短編集『Disorientalism』(Vagabond Press、2014年)、翻訳にデイヴ・エガーズ『ザ・サークル』(早川書房、2014年)など。