ジャック・ロンドンが描く、犬と人間、そして狼との関係【柴田元幸】

英米現代・古典文学に登場する印象的な「一句」を紹介。ジャック・ロンドンの小説に登場するバックという名の犬と、人間、そして狼との関係は?

Buck did not read the newspapers.

Jack London, The Call of the Wild (1903)

ジャック・ロンドンの有名な中編小説の書き出しである。バックは犬なのだから、当然新聞など読まない。だが、新聞の報道によって、アラスカでのゴールドラッシュのことをアメリカの人々は知り、それによって橇(そり)犬への需要が高まって、そのせいで、カリフォルニアの豪邸で暮らしていたバックも犬さらいに攫われてしまうのである。

ちなみにこの書き出しの一文、本当はここで終わらず、“Buck did not read the newspapers, or he would have known that trouble was brewing, not alone for himself, but for every tide-water dog, strong of muscle and with warm, long hair, from Puget Sound to San Diego”(バックは新聞を読まなかった。読んでいたら、災難が差し迫っていることがわかっただろう―彼のみならず、筋肉たくましく毛が長く温かい、ピュージェット湾からサンディエゴまで西海岸地帯にむすべての犬にとって)と続くのだが、ここで切ってしまうことをお許し願いたい。印象に残るのは、圧倒的にこの6語なのだから。

裕福な人間たちと共に、何一つ不自由のない暮らしをしていた犬が、アラスカの過酷な自然の中に放り込まれ、残酷だったり無神経だったりする人間たちに出会い、彼を愛してくれる人間にも巡り会うものの、最終的には狼たちに呼ばれて、人間社会を完全に捨てて狼となる。このThe Call of the Wildに限らず、極北の地を舞台にしたジャック・ロンドンの物語にはしばしば、人間、犬、狼が登場する。たとえば最高傑作の短編“To Build a Fire”(1908)では一人の男が犬を連れて極寒の地を旅するし、“Love of Life” (1905)では両者とも瀕死ひんし状態 の人間と狼が互いをらって生き延びようとあがく。

それらを読んでいくうちに、そこに明らかな上下関係が見えてくる。といってもそれは、普通誰もが考えるような、人間が一番上に位置する関係ではない。友人たちからWolfと呼ばれ、カリフォルニアに建てた理想の家をWolf Houseと名付けたジャック・ロンドンにとって、狼こそ至高の存在であり、犬は狼に近い故それなりに気高く、人間が一番下だった。The Call of the Wildが、もう一つの有名な長編White Fang(1906) 以上に強い印象を残すのは、前者が人に近い犬が狼の群れに加わる「進歩」の話であるのに対し、後者は狼に近い犬が人の群れに加わる「退化」の話だからである。

北の地で金鉱が発見された、という新聞の「呼び声」に応えて人間が極北の地を目指すことから始まるThe Call of the Wildは、狼の呼び声に応えてバックが荒野に―新聞などとはまったく無縁の地に―入っていくことで終わる。冒頭ではバックの無知を伝えているように思えた“Buck did not read the newspapers” という一句は、彼がいずれ人間の文明と無関係な気高い世界に入っていくことの予兆なのだ。

柴田元幸
柴田元幸

1954年、東京生まれ。アメリカ文学者・東京大学名誉教授。翻訳家。アメリカ文学専攻。『生半可な學者』で講談社エッセイ賞受賞。『アメリカン・ナルシス』でサントリー学芸賞受賞。トマス・ピンチョン著『メイスン&ディクスン』で日本翻訳文化賞受賞。アメリカ現代作家を精力的に翻訳する他、『ケンブリッジ・サーカス』『翻訳教室』など著書多数。文芸誌『MONKEY』の責任編集を務める。

※本記事は『ENGLISH JOURNAL』2021年5月号に掲載した内容を再構成したものです。

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