ニコルソン・ベイカーの『中二階』で描かれる、人生の核心【柴田元幸】

翻訳家、柴田元幸先生が毎月一冊の洋書を紹介する連載。今月取り上げるのはニコルソン・ベイカーの『中二階』(The Mezzanine)です。長編小説が語る「人生の核心」について考察します。

Perforation! Shout it out!

Nicholson Baker, The Mezzanine (1988)

ニコルソン・ベイカーのデビュー作The Mezzanineは、一見なんの変哲もない一文とともに始まる。

At almost one o’clock I entered the lobby of the building where I worked and turned toward the escalators, carrying a black Penguin paperback and a small white CVS bag, its receipt stapled over the top.

一時近く、僕は自分の職場がある建物のロビーに入り、エスカレーターの方に向かった。手にはペンギンの黒表紙シリーズのペーパーバックと、レシートが口にかぶせてホッチキス留めしてある小さな白いCVSファーマシーの袋を持っていた。

長編小説というものは第1 文から人生の一大事を語り出すことはそうなくて、まずは日常の些さ末まつな一要素から始めるのが相場である。なのでこの小説も、こういう些末なところから入って、だんだん核心に入っていくのだろうと思うわけだが、読み進めると、このエスカレーターが描写され(全体の線が“a pair of integral signs”[一対の積分記号=∫]に喩えられる)、ロビーの大理石とガラスが作り出す光のエスカレーターが語られ、手すりの黒いゴムの微妙な揺れがLPレコードの外縁のうねりと重ね合わされ、あまつさえそこに注釈が付されて、“I love the constancy of shine on the edges of moving objects”(動いている物体の縁に当たった光が静止している感じが僕は好きだ)と語り手の持論が展開される。これはどうも、人生の核心に入っていくのは当分先だろうと思わされる。

で、いつ入るかというと、最後まで入らないのである。ストローの素材の変遷、ホッチキスの形状、牛乳の容器、靴下のはき方等々、人生の核心への導入部にいかにも使われそうな些末な物たちについての思索がずっと、ずっと続く。そう、語り手(と作者)に言わせれば、そうした物たちこそが人生の核心なのだ。

“Perforation! Shout it out!” という第9章3 番目の注冒頭の叫びは、そういった作者の哲学をもっとも端的に伝えている。

Perforation! Shout it out! The deliberate punctuated weakening of paper and cardboard so that it will tear along an intended path, leaving a row of fine-haired pills or tuftlets on each new edge! It is a staggering conception, showing an age-transforming feel for the unique properties of pulped wood fiber.

ミシン目! 讃たたえよミシン目! 紙や段ボールに等間隔に傷をつけてわざと弱くし、意図した線に沿って裂けるようにして、そこに生じた断面一つひとつに、細かく毛羽立った球体が、微小な毛玉が残る! 驚嘆すべき着想であり、パルプ繊維固有の特性に対する、時代を変革するほどの理解がここに表れている。

こういう作品は訳者によって活いかされも殺されもする。日本で岸本佐知子という訳者を得たことはニコルソン・ベイカーにとって大きな幸運だった。この『中二階』と、9歳の女の子の言い間違いだらけの言葉を忠実に再現した『ノリーのおわらない物語』(The Everlasting Story of Nory)の原文と訳文を比較することは、翻訳を学ぶ上で最良の独習法である(本文中の訳はいちおう自分でやりましたが、苦労しました・・・)。

柴田元幸
柴田元幸

1954年、東京生まれ。アメリカ文学者・東京大学名誉教授。翻訳家。アメリカ文学専攻。『生半可な學者』で講談社エッセイ賞受賞。『アメリカン・ナルシス』でサントリー学芸賞受賞。トマス・ピンチョン著『メイスン&ディクスン』で日本翻訳文化賞受賞。アメリカ現代作家を精力的に翻訳する他、『ケンブリッジ・サーカス』『翻訳教室』など著書多数。文芸誌『MONKEY』の責任編集を務める。

※本記事は『ENGLISH JOURNAL』2021年8月号に掲載した内容を再構成したものです。

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