「翻訳者になって幸せになれる人」の特徴とは?ウィリアム・ブレイクの詩「無垢の予兆」【英語文学】

翻訳者のエリザベト怜美さんが、多様な作家による作品を通して、文学をリアルに感じる読み方をお届けする連載「イギリス育ち翻訳者の英語文学へのいざない」。第3回は、18~19世紀を生きたイギリスの詩人で画家のウィリアム・ブレイクによる詩「無垢の予兆」です。翻訳と詩の共通点とは?

翻訳者に向いているのはどんな人?

ごくまれに、「翻訳者になるためには、どんな能力や訓練が必要ですか?」と、尋ねられることがある。

翻訳という仕事には、なんとなく最初に思い浮かべる文芸翻訳のほかに、法務、製薬、金融、映像、ゲーム、広告、ニュース、学術論文など、さまざまなジャンルがある。いわゆる理系出身の人の活躍も大きい。

つまり、おおよそ考えられるすべての業種と職種に寄り添う翻訳者たちがいて、それぞれまったく別の文章を相手にしている。もちろん、そのうちいくつかを掛け持つ人もいる。翻訳者になる人の経歴は、まちまちだ。

それから、仕事として続けていくには、社内翻訳者でもフリーランスでも、一般的な社会人としての技能が必要になる。一つ一つはささいでも、まとめようとするとうっすらめまいがする。それに、誰だってすべてを身に付けることはできない。 取引 先や時代によって、優先順位も変化する。

翻訳者として求められる能力は「翻訳者になって、何の翻訳をしたいのか、どんな働き方をしたいのか」による、というのが精いっぱいの真摯(しんし)な答えだ。

とはいえ、これまで見ていると、「翻訳をして幸せになる人」には一定の 傾向 があるような気がする。それも一つではないけれど、私がぱっと思い付くのは、「詩の言葉が好き」という特徴だ。

ウィリアム・ブレイクの「無垢の予兆」

To see a World in a Grain of SandAnd a Heaven in a Wild Flower, Hold Infinity in the palm of your handAnd Eternity in an hour.(“Auguries of Innocence ,” William Blake)

一粒の砂にも世界を
一輪の野の花にも天国を見、
君の掌のうちに無限を
一時(ひととき)のうちに永遠を握る。
(ウィリアム・ブレイク「無垢の予兆」松島正一訳、 『対訳 ブレイク詩集――イギリス詩人選(4)』 岩波文庫より)

18世紀イギリスに、ウィリアム・ブレイクという詩人がいた。当時は異端として扱われたが、今やその詩「エルサレム」はイングランドの国歌として親しまれている。

生前は銅版画家として生計を立てており、残された詩がその後のラファエル前派にインスピレーションを与え、それからは私たちもよく知っているビートルズやレッド・ツェッペリン、さらに海を渡ってアメリカのアレン・ギンズバーグ、ボブ・ディラン、ジム・モリソン、パティ・スミスなどのビート詩人や音楽家たちに受け継がれていった。

日本では、民芸運動の指揮者、柳宗悦が翻訳したことや、ノーベル文学賞作家の大江健三郎がブレイクに基づいた作品を書いたことで知られている。

先ほどの詩からは、ブレイクが見た世界の構造が読み取れる。

1行目は、巨大なものである「世界」をごく小さなものである「一粒の砂」に、2行目は崇高なものである「天国」を身近な「一輪の野の花」の中に見るということ。3行目は、「無限」という空間を超えたものを自分の「掌(てのひら)」で、4行目は「永遠」という時間を超えたものを「一時」という瞬間的なものにおいてつかむこと。

つまり、この詩は、最も小さいものの中に最も大きいものが映されている様子を表している。

詩とは何か?

ある夏、私は直島の浜辺を散歩した。かがみ込んで、押し寄せる波に手を浸しながら水平線に目をやると、「今ここ」で触れている冷たい海水が、ずっと遠くまで延びているのがわかった。

そのとき感じた途方もない感覚が、ブレイクの「無垢の予兆」で語られているように思う。

詩は、このような真実の感触を、私たちが共有している言葉で描写する。煙に巻くような謎かけをしているのではなく、むしろ詩人にとって本当のことをそのまま書こうとしているから、詩的な表現は一見、見慣れない言葉遣いになる。

それは、真理をひもとこうとする哲学の言葉に近い。 ただし 、哲学はあくまで論証を通して普遍的な事柄の理解を求めるのに対し、詩はイマジネーションの力で読み手に本質を感じさせる。

よくよく眺めると、「一粒の砂」に「世界」を見る、という表現は不可思議だ。例えば、一粒の砂を払い落とすとか、世界の人口は78億7500万人です、というフレーズに比べてどうも耳に慣れない。それでも、私たちはそこに何かしらのリアリティを直感する。そこには、詩情がある。

異邦の言葉に向き合う

詩を書くとは、世界を翻訳することだ。

画家が、詩人が、世界との彼らの出会い以外のものを語ったりするであろうか?

(メルロ=ポンティ「間接言語と沈黙の声」竹内芳朗訳、『シーニュ 1』みすず書房より)

詩は、世界が語り掛けてくる言葉にならない言葉を、人間の言葉に変換する。詩人は、「言葉にならないあの感じ」だったり、普段の生活で語られていることの少し奥に踏み込んで、それをそっくりそのまま文字にしようとする。詩は、世界のありのままの姿との出会いを語っているのだ。

一方、翻訳者が文章を翻訳するというのは、他者の言葉を自分の言葉で語り直す、ということだ。

それは、一つの言語からもう一つの言語へと言葉の形を変えることだけではない。書かれた言葉に宿る他者の論理、思考、感覚、知識を丸ごと、自分にとって理解できる言葉で語るという行為なのだ。

実際、言葉の意味をくんだり、筋が通るように論理を組み直したりしていると、人の数だけ言語があるという奇妙な事実を発見する。

詩人も、翻訳者も、自分のものではない言葉の海に潜り込む。相手が世界という巨大な宇宙であれ、他者という小さな宇宙であれ、「翻訳」という 作業 では、見知らぬところで話される異邦の言葉にじっくりと向き合う。

実際に、詩人が翻訳者になり、翻訳者が詩人になることもある。近頃、ヴァージニア・ウルフの小説『波』のすばらしい新訳版を出された森山恵氏は、翻訳者であり詩人でもある。

翻訳と詩作で言葉の海に潜る

翻訳をするとき、時折、言葉のない海の底まで潜っていく感覚がある。だんだんと光の届かなくなる深い水の中で、これまで覚えていた言葉をぽろぽろと忘れていく。それから、海底の岩に触れ、また水面へ顔を出すまでの間にゆっくりと自分の言葉を思い出していく。

この適切な訳語を探り当てようとする行為は、詩を書いているときの感覚に似ている

たまに、海に素潜りをしに行くこと。私自身が理解して用いている「自分の言葉」という浜辺から、理解を超えた地平線の向こうへと視線を延ばし、その間を揺れ動く波のように暮らすこと。寄せては引いてを繰り返す中で、一つの言葉の意味がより豊かに重ね合わせられていく様子を眺めること。

異邦の言葉との戯れに、終わらない喜びを覚えること。それが、翻訳しながら過ごすという暮らし方なのだ。

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▼エリザベト怜美さんの連載「イギリス育ち翻訳者の哲学的生活」

記事中の写真撮影:エリザベト怜美

エリザベト怜美(えりざべと れみ) 翻訳者。1991年、横浜に生まれ、イギリスで育つ。上智大学文学部哲学科卒。在学中から翻訳会社に勤務し、アートギャラリー、広告代理店を経て独立。主に、広告、海外ボードゲーム、映像作品の翻訳を手掛ける。ボードゲーム『プレタポルテ』『クロニクル・オブ・ クライム』『テインテッド・グレイル』翻訳。
Twitter: @_elizabeth_remi

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