三人称単数の“they”と、物語の中の〈性別〉【若い世代の物語を訳す】

「若い世代の物語を訳す」第二回のテーマは、〈性別〉にかかわる言葉と翻訳です。性別を限定しない三人称単数の“they”をどう訳すのか。また、原書に記された性別にかかわる表現を、訳文にどこまで反映するのか。その判断には、時代や社会の意識、作者の意図、読み手のとらえ方までがかかわってきます。翻訳家・三辺律子さんが、自身の訳書での経験を交えながら、言葉を選ぶことの難しさとおもしろさを語ります。

時代を表す言葉

日本では日本漢字能力検定協会が毎年「今年の漢字」を発表しているが、アメリカでは辞書出版社メリアム・ウェブスター社が「今年の言葉(Word of the Year)」を発表している。例えば、昨年2025年は「slop(スロップ)」。「AIによって大量に生成された低品質のデジタルコンテンツ」を意味する言葉だ。「今年の言葉」が始まった2003年は、「democracy(民主主義)」だったことを思うと、皮肉を通り越して悲しみすら感じる。

さて、このコラムの読者ならご存じの方も多いと思うけれど、2019年のメリアム・ウェブスター社の「今年の言葉」はtheyだった。ノンバイナリー(性自認が男女のどちらか一方だけに限定されない)の人を指す代名詞として、急速に注目を集めた言葉だ。同社のサイトには、こんな説明がある。

It reflects a surprising fact: even a basic term—a personal pronoun—can rise to the top of our data.
ここからわかるのは、意外な事実だ。人称代名詞のような、ごく基本的な言葉でさえ、データのトップに躍り出ることがあるのだ。

たしかに。

実際、2019年には、ノンバイナリーを公言するモデルのオスロ・グレースが男女両方のファッションショーに登場したり、歌手のサム・スミスが自分の代名詞にthey/themを使うと発表したりといったニュースもあった。とはいえ、わたしはまだ、一般にどこまで普及するかな、と半信半疑だった。

“they”はもう「彼ら/彼女ら」だけではない

ところが、その翌年、2020年に刊行された Darius the Great Deserves Better(未訳。前回ご紹介した『ダリウスは今日も生きづらい』の続編です)で、さっそくこの三人称単数のtheyに出くわす。

“Hey. Can I help you?” (Darius)
“I’m looking for a gift for my partner.” (Customer)
“Oh. Do you know what they like to drink?” (Darius)
“She doesn’t like caffeine,” they said. (Customer)
So I led them over to our herbal section.
(カッコ内は筆者。話者がわかりやすいように補った)

Adib Khorram, Darius the Great Deserves Better, Dial Books, 2020

お茶オタクのダリウスは、お茶専店でバイトしている。そこへやってきたお客が“I’m looking for a gift for my partner.”と言うと、ダリウスは“Oh. Do you know what they like to drink?”と言う。このtheyは誰か?

当時のわたしは、theyといえばまず「彼ら/彼女ら」という複数形のイメージが強かったので、反射的に「どうして複数?このtheyは誰?」と思った。性別のわからない単数の人物をtheyで受ける用法自体は昔からあるけれど、このシーンのように、目の前の人がpartnerと言ったら、その人の見た目から、ついpartnerの性別まで想像し、heかsheで受けることが多かったのではないか。

でも、ダリウスはそうしない。この時点ではpartnerの性別はわからないのだから、わからないままtheyで受ける。というわけで、答えはthey = my partner。

さて、次はこう続く。“She doesn’t like caffeine,” they said. Sheが出てきたので、お客のパートナーが女性だと判明。これで一件落着――と思ったら、またもやtheyが! 

文脈上、こちらのthey saidのtheyが、お客一人を指しているのはまちがいない。つまり今度は、目の前にいる人についても、heかsheかを決めつけず、theyで受けているのだ。もちろん、その次のled themのthemも、同じお客を指している。

――といったことは、theyの使われ方が大きく変わりつつあると知らなければ、気づけなかったかもしれない。翻訳をしていると、単語や文法だけ知っていればいいわけではないな、とつくづく思う。言葉が今、社会の中でどう使われているのか。そんな時事的な背景にも、目を向けておく必要がある。

「いらっしゃいませ、なにかお探しですか?」
「パートナーのプレゼントを探しているんです」
「なるほど。どんな飲み物がお好きか、ご存じですか?」
「彼女はカフェインが苦手なんです」と、お客(もしくはその人)は言った。
「では、ハーブティーの棚にご案内しますね」

すとしたら、こんな感じだろうか。

日本語は、文脈からわかる主語や目的語を省略することが多い。だから、この短いやりとりに何度も出てくるthey/themを、一度も訳文に出すことなく、意外にすんなり訳せてしまう。

しかし、そこがまた、翻訳者には悩ましい。すんなり訳せてしまうからこそ、作者が性別を限定せず、あえてtheyを使ったことも見えにくくなってしまうからだ。

その後何度も、この三人称単数のtheyにお目にかかっているけれど、反射的に「え、このtheyって誰?」といまだに思ってしまうことがある。そのうち――「性別を限定しない」という考え方が完全に当たり前になれば――いちいち引っかからなくなるだろう。ただ、「あ、そうか、三人称単数のtheyね」とわかったところで、今度は、じゃあそのtheyをどう訳すの?という問題が残る。

 

登場人物の性別を訳出するか

この「反射的」は、なかなか曲者だ。

例えば、ファンタジー『 かなたの海の王国 』(ゾーラ・ナビ著、静山社)を訳したとき。

The person opened the door a little wider. In the light of the house one could make out her overlarge student robes, the young face beneath her turban.

Zohra Nabi, The Kingdom Over the Sea, Simon & Schuster, 2023

『かなたの海の王国』は中東風の世界を舞台にしたファンタジーだ。精霊(ジン)が跋扈(ばっこ)し、町には市場(バザール)が広がる。サンブサックやハルヴァといった食べ物、サルワール・カミーズやターバンなどの衣服が登場し、西欧風のファンタジーとは一味違う文化や風俗が描かれる。

さて、わたしはこの箇所を最初、次のように訳した。

相手は、もう少しだけ扉を開いた。家の明かりに、学生用の大きすぎるローブと、ターバンを巻いた若者の顔が浮かびあがった。

すると、編集者の方から次のような質問がきた。「思い込みですが、ターバンを巻いている=男性のイメージがありました。この学生さんは女性であることをどこかでわかるように入れますか?」

うーん、たしかに。ターバンと聞いて、反射的に「男性」を思い浮かべる読者は少なくなさそう。この場合は、原文にherとはっきり書かれているのだから、性別を明示したほうが、むしろ原文の情報をきちんと伝えることになるだろう。

そこで、こう直した。

相手は、もう少しだけ扉を開いた。家の明かりに、学生用の大きすぎるローブと、ターバンを巻いた若い少女の顔が浮かびあがった。

ゾーラ・ナビ『かなたの海の王国 1』三辺律子訳、静山社、2026年、p. 7

ちなみに、同じ作品で、度は逆に、性別を表に出さずに訳したところもある。

When you arrive at your destination, ask for the sorceress Leyla Khatoun, at the third-to-last house on Istehar Way, in the Sorcerers’ Quarter.

ここは、

目的地に着いたら、レイラ・ハートゥンという魔法使いを訪ねなさい。魔法使い地区イステハール通りの突きあたりから数えて三軒目の家です。

『かなたの海の王国 1』、p. 16

と訳した。sorceressを「魔女」ではなく「魔法使い」としたのは、ここでは性別が重要な情報ではなく、日本語なら男女を問わず「魔法使い」と呼べること、さらに「魔女」には文脈によって邪悪な存在という含みが生じ、この作品にはそぐわないと考えたからだ。

というわけで、人称一つ訳すのにも、その都度、作者はなぜこの言葉を選んだのか、この情報は物語の中でどんな役割を果たしているのか、時代や社会でどう受け取られるか、読者はどう読むだろう、などなど、あれこれ考えなければならない。その判断には翻訳者自身の知識や思い込み、時代感覚まで入り込む。そこが翻訳のこわさでもあるし、おもしろさでもあるのだ。

三辺律子さん翻訳の書籍

三辺律子(さんべ りつこ)
三辺律子(さんべ りつこ)

翻訳家。訳書に『 エヴリデイ 』『 エイダンをさがして 』(小峰書店)、「 ズィーラーン国伝 」シリーズ(評論社)、『 ムーンライズ 』(岩波書店)、『 答えは本の中に 』(理論社)、『 わたしを忘れないで: アンネが日記を書く前の物語 』(NHK出版)など。共編著書に『 BOOKMARK 翻訳者による海外文学ブックガイド 』1&2など。 〈 10代がえらぶ海外文学大賞 〉選考委員。

写真:サトノリユキ

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