辞書に同じ単語の発音記号が複数載っていることは、知識としては知っていました。ただ、それを本当に実感したのは、20代前半、まだ駆け出しの英語教師だったころのことです。アメリカ出身の教師が「そんな発音はしない」と言い、イングランド出身の教師がその発音をさらっと口にする。そのやり取りを目の前で聞いたとき、辞書の発音記号が、急に人の声を持ったもののように感じられました。
目次
herbのhをめぐる職員室での一幕
私が高校で英語を教えていたころのことです。20代前半で、教師としてはまだ駆け出し。授業をしながら、自分も毎日のように英語を学んでいた時期でした。
ある日、アメリカ出身のTT(ティーム・ティーチャー)が、日本の英和辞書を手に取り、herbの項目を指してこう言いました。
「日本の辞書はうそを書いている。herbにhの音なんてない」
なかなか強い言い方です。
ただ、その先生の感覚としては、本当にそうだったのだと思います。彼にとって、herbはhを発音しない単語だったのでしょう。
ところが、その場にはイングランド出身の教師もいました。
彼女は、何事もないように、hを含めてherbと発音してくれました。
その瞬間、私は少し驚きました。
アメリカ出身の先生が「そんな発音はない」と感じたものを、イングランド出身の先生はごく自然に口にしたのです。
発音記号で見ると、アメリカ英語ではherbは多くの場合、語頭のhを発音せず、/ɝːb/のように示されます。日本語であえて近づければ、「アーブ」に近い音です。
一方、イギリス英語ではhを含めて/hɜːb/と発音されます。日本語の「ハーブ」に近い音です。
今なら、英米差の一例として説明できます。
でも、そのときの私は、もっと単純に「辞書に載っている発音って、本当にその音で話す人がいるんだな」と感じていました。
ballでも同じことが起きた
似たようなことは、ballでもありました。
あるとき、そのアメリカ出身の先生が、辞書に載っていたballの二つの発音記号を見て、そのうちの一つを指しながら「こんな発音をする人はいない」と言いました。
すると、同じイングランド出身の先生が、その「しない」と言われた方の発音を、またしてもさらっと実演してくれたのです。
こちらも、私にはかなり印象的でした。
ballは基本語です。多くの学習者が早い段階で出合う単語でしょう。
しかし、そのような基本語でさえ、辞書によっては複数の発音が示されます。例えば、ballは、辞書や発音表記の方針によって、母音の示し方が異なることがあります。
日本語ではどれも「ボール」と書けてしまいますが、発音記号で見ると、母音の違いや、地域による音の幅が見えてきます。
もちろん、当時の私も、発音に地域差があることをまったく知らなかったわけではありません。英語を教える立場にいたのですから、そこはさすがに知識としては知っていました。
ただ、知識として知っていることと、目の前で二人の話者がそれぞれの発音を自然に口にするのを聞くことは、やはり少し違います。
「ああ、本当にそうなんだ」
そのときの感覚を言葉にすると、たぶんそれくらい素朴なものだったと思います。
辞書の中の情報が、声になる
辞書に発音が複数載っていること自体は、英語を教えていた当時の私も知っていました。
herbなら、アメリカ英語ではhを発音しない/ɝːb/が一般的に示され、イギリス英語ではhを発音する/hɜːb/が示されます。
ballでも、辞書や英語の種類によって、母音の表記が複数示されることがあります。
そうしたことは、紙の上の知識としては分かっていました。
「英語には地域差がある」
「アメリカ英語とイギリス英語では発音が違うことがある」
「辞書には複数の発音が示されることがある」
どれも、英語を学んでいればどこかで出合う話です。
けれども、アメリカ出身の先生が「そんな発音はしない」と言い、イングランド出身の先生がその場で別の発音をさらっと口にする。そのやり取りを目の前で聞いたとき、辞書の発音記号が、ただの情報ではなくなったように感じたのです。
紙の上に並んでいた記号が、急に人の声とつながった。
少し大げさに聞こえるかもしれませんが、私にはそんな体験でした。
「ネイティブが言っていた」だけでは足りないかもしれない

英語学習では、「ネイティブがこう言っていた」という言葉が強い説得力を持つことがあります。
もちろん、実際の話者の感覚は大切です。私自身、英語教師時代にネイティブスピーカーとのやり取りから多くを学びました。
ただ、ネイティブスピーカーも一人の話者です。
アメリカ出身の人が「その発音はしない」と言ったとしても、それはアメリカ英語の中での感覚かもしれません。ある地域、ある世代、ある環境で身に付けた英語の感覚かもしれません。
だからこそ私は、個々の話者の感覚も、辞書に記録された情報も、どちらも大切にしたいと思うようになりました。
一人のネイティブスピーカーが否定した発音を、別のネイティブスピーカーが自然に発音する。
その場面を見ていると、「ネイティブの英語」とひとまとめに言うこと自体が、少し乱暴なのかもしれないと思えてきます。
wordとworldを聞かれたこともある
発音については、別の印象的な出来事もありました。
カナダ出身の英語教師に、wordとworldの発音はどう違うのか、と聞かれたことがあります。
「同じに聞こえるよね」と言うのです。
彼はケベック出身で、フランス語圏の背景を持つ先生でした。そのことも関係していたのかもしれません。
そのとき私は、「それを私に聞くんだ。日本人だけど」と内心少し驚きました。
駆け出しの日本人英語教師だった私にとっては、少し不思議で、忘れにくい場面でした。
もちろん、この一つの出来事だけで何かを一般化することはできません。
ただ、英語を使う人であっても、すべての音の違いを同じように意識しているわけではないのだな、とは感じました。
発音に対する感覚は、その人がどこで、どんな環境で英語を使ってきたかにも関わっているのかもしれません。
発音記号は「正解」だけを書くものではない
発音記号というと、どうしても「正しい発音を覚えるための記号」と考えがちです。
もちろん、その役割はあります。/r/と/l/、/æ/と/ʌ/のように、日本語話者が区別しにくい音を確認するうえで、発音記号はとても役に立ちます。
ただ、発音記号には、もう一つ別の役割もあるように思います。
それは、英語が一つではないことを見える形にしてくれる、という役割です。
- herbに/ɝːb/と/hɜːb/がある
- ballに複数の発音表記がある
- 同じ単語でも、英語の種類によって音が変わることがある
そうした違いを見たとき、「どちらか一方だけが正しい」と決めるより、「どの地域の英語では、どのように発音されるのだろう」と考えてみる。
そうすると、辞書の発音記号の見え方が少し変わってきます。
少なくとも、私にとってはそうでした。
辞書の発音記号が、声として聞こえた日
高校の職員室で見た、あの二つのやり取りは、今でもよく覚えています。
herbのhを「発音しない」と言うアメリカ出身の先生。
その場でhを入れて発音するイングランド出身の先生。
ballのある発音を「そんな発音はしない」と言う先生。
その発音を自然に実演する別の先生。
どちらかが英語を知らなかったわけではありません。どちらも、自分の中にある英語の感覚を、ごく自然に口にしていただけなのだと思います。
20代前半の私は、そのことを今のようには言葉にできませんでした。
ただ、何か大切なものを目の前で見たような気がしました。
もちろん、発音記号を見れば英語のすべてが分かるわけではありません。辞書に載っている発音も、実際の話し方の一部を整理して示したものです。
それでも、同じ単語に複数の発音が載っているとき、そこには確かに、その音で話す人たちの存在がある。
今なら、「英語は一つではない」と言葉にできます。
ただ、そのときの実感は、もっと素朴なものでした。
「ああ、辞書に書いてあることって、本当に人の声につながっているんだな」
発音記号が少しだけ身近に見えるようになったのは、たぶんその日からです。
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