『Ducks: Two Years in the Oil Sands』は、著者のケイト・ビートンが、石油生産現場で働いた経験を描いた自伝的なグラフィックノベルです。自分を持たざる者(have-not)だったと語るビートンに、樋口武志さんは翻訳家として駆け出しだった頃の自身を重ね合わせたそうです。
学生ローン返済のため、石油生産現場で働いた作者
アニメシリーズ「パインコーン&ポニー」(Apple TV+)の原作絵本『The Princess and the Pony』や『Hark!A Vagrant』という作品で知られるケイト・ビートンの新作『Ducks: Two Years in the Oil Sands』は、彼女が大学を卒業してからの数年間を描いた自伝的なグラフィックノベルだ。グラフィックノベルという言葉に厳密な定義はないが、コミック風の絵とコマ割りを土台としながら、小説のような一つのまとまった話が重厚に描かれていく作品を指すことが多い。
『Ducks』は、ケイト・ビートンがオイルサンド(原油を抽出できる油砂)の開発現場で働いた2年間を描く。カナダのアルバータの、しかも石油生産現場という日本では想像もつかないような場所での話に私が関心を持ったのは、彼女がそこで働く理由が「学生ローンを早く完済するため」だったからである。彼女は割のいい仕事を求め、地元を離れて幾つかの生産現場を転々としながら住み込みで働いた。
have-nots(持たざる者)の仕事観
学生ローンといえば、近年アメリカで話題のトピックだ。2018年の報告書では、公立・私立非営利大学の2018年卒業者の65%がローンを借り、その平均額は2万9200ドル(2023年6月現在のレートで約410万円)だという。多くの人が学生ローンの返済を抱え、支払いできない人が増えていることが社会問題化している。そうした背景から、「学生ローンの返済免除」がバイデン大統領の政策の目玉となっている。年収12万5,000ドル(約1750万円)以下を対象に、最大1万ドル(条件によっては2万ドル)の免除を行うというものだ。対象者4300万のうち2600万人が申請したという。この政策は現在その合憲性が最高裁で審議されており、6月末に判決が出る予定となっている。
日本でも、おおよそ半数の大学生が奨学金を借りているといわれており、そのうち大多数が給付ではなく貸与型、つまり返済義務があるローンを抱えている状態だ。大学卒業後、毎月返済している人も多いのではないだろうか。あるいはケイト・ビートンのように、まとめて返済した人もいるかもしれない。本作の舞台であるカナダでも、 返済義務のある学生ローンを借りている人のうち40%は返済に苦しみ、卒業時は平均で2万8000カナダドルの負債があるという。
お金と仕事をめぐる悲哀は、どんな国の話であれ、自分と重なる部分があったりする。「産業などを持たざる地域(the have-not region)の貧しい持たざる人間(have-nots)」としての彼女の言葉も、地方から上京してきた私からすると、なんだかしみじみと共感できる。作中で彼女は「We had to leave home to have one.(家を持つためには家を出なければならなかった)」と言い、「To “have-not” is a mental state as well as an economic one.(「持たざる者」とは、経済状態だけでなく精神状態も指す)」と語っている。この点について作者はインタビューで、次のようにもう少し詳しく述べている。
When you export labor for generation after generation, eventually you do internalize the idea that what you have and who you are is not good enough, and what work you can get somewhere else and however they treat you is good, no matter what it is, as long as it’s a job.
労働力を何世代にもわたって外に出してばかりいると、自分が持っているものや自分という存在は十分でないのだという考えが内面化されていく。するとどんな仕事であれ、よそでどんな仕事が得られるか、待遇はどうであるかが重要になる。それがどんな内容であれ、仕事である限りは。
こうした気持ちは、上京した人や、何度も就職試験に落ちた人はよく分かるのではないだろうか。何度も試験に落ちていると、自分に足りない部分があると思うようになる。そんなときに内定が出ると、どんな内容であれ、仕事としてお金がもらえることが重要なのだと考えるようになる・・・。
laborが2つの意味を持つ理由
過去に訳した本に出てきて印象的だったため覚えているのだが、フランス語で「仕事」を意味する「travail」は拷問具を意味するラテン語に由来するという。また、知恵の実を食べたアダムとイブはエデンから追放されるが、それだけでなく罰としてアダムには過酷な労働が、イブには出産の苦しみが科された。そのためlaborには「労働」のほか、「陣痛」という意味がある。
つまり、かつて仕事は苦しいもの、という考え方があった。しかしお金を稼ぐため、あるいは他に仕事がないから、という理由で、現在もそうした仕事を耐えたり受け入れたりしている状況もある。このあたりはどうしても、日本での就職活動や、フリーランスとして駆け出しの頃の自分の姿と重なる。仕事や金銭面で先々の見通しが立たない日々のやるせなさ、わびしさ、孤独感。『Ducks』で描かれる労働にまつわる悲喜こもごもには、シンパシーを感じる。
また彼女の場合、男性ばかりの職場に身を置いているつらさもある。50対1くらいの男女比であったという。彼女は常に、男たちからの好奇の目や性的な言動に晒され続けた。本人も語っているように、出会ったすべての男が嫌な人間ではなかったこと、そして「このような環境にいたら、父も兄弟も親戚も、周りの男たちと同じような行動を取ってしまうかもしれない」という悲しい認識を得たことなどを踏まえ、同僚の男性たちを糾弾するような形では描かれていないが、いかに厳しい状況に耐えてきたかが分かる。。
最後まで目が離せない一冊
タイトルの「Ducks」は、オイルサンドにある貯水池に飛来し、油にまみれて死んだカモの群れのことを指している。死んだカモたちは、オイルサンドでの仕事に耐えるうち彼女のなかで押し殺されていったさまざまなものの象徴に思える。
なんだか読むのがつらい話に聞こえるかもしれないが、そんなことはない。仕事で故郷を離れざるを得ないこと、お金を稼がねばならないこと、周りが男ばかりであること。そうした、誰もが一度は感じるような仕事(labor)やお金にまつわる苦しみや悲哀が克明に描かれている。だから最後まで目が離せない。国も環境も日本とはまったく異なる場所での話ではあるが、まるで自分のことのようだと感じる人も多いはずだ。
今回紹介した本
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本文写真:ANDREAS BODEMER from Unsplash
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