舞台芸術の通訳者が体調を崩したら【通訳&翻訳 BEHIND THE SCENES⑩】

翻訳家で通訳者の平野暁人さんが、舞台芸術の仕事を中心に通訳翻訳の世界を語る連載『通訳&翻訳 BEHIND THE SCENES』。1人の通訳者で対応することが多い舞台現場で体調不良を起こした場合に、休めるのか、そして代行者はすぐに見つかるのかなど、平野さんの経験を交えてお話しいただきます。

体調不良でも休めない舞台芸術通訳者

こんにちは。翻訳家で通訳者の平野暁人です。まず皆さんにおわびしておかなければならないことがあります。前回の記事の最後で「次回はもっと楽しい話をします」と書いていたのですが、急きょ内容を変更しました。というのも、この原稿を書いていた2022年7月当時、体調を崩し、楽しみにしていた通訳の現場を降板して療養中でした。こんなことは初めてで、かなり気落ちしました。しかも体調が悪かろうと原稿の締め切りはやってくるわけで、こうなったらいっそのこと「舞台芸術の通訳者が体調を崩したら」について書いてやろうと思うに至った次第です。転んでもただでは起きないのだ!

舞台芸術の創作現場において通訳者とは、実は他の誰よりも、それこそ演出家や主演俳優よりも休みづらい立場にあります。演出家が休みであればその日は俳優スタッフのみで自主稽古に充てることもできますし、俳優が1人いなくてもその人が出演していないシーンの稽古をする、あるいは誰かが代わりに演じるという手がありますが、他のメンバーが全員そろっていて通訳者だけがいないとなると、意思の疎通が行えず、たちまちあらゆる作業がストップしてしまうからです。

とはいえ私も舞台芸術の仕事を始めて優に10年以上はたちますし、その間、体調不良に見舞われたことだってないわけではありません。ではそんなとき、誰よりも休めないはずの通訳者として、どんなふうに乗り切ってきたのでしょうか。

第1のオプションとして挙げられるのは「体調など崩していないことにする」です。何を言っているのか分からないかもしれませんね。例えば朝起きて熱っぽい気がしたら、決して体温だけは測ってはいけません。そんなことをして熱が出てしまったら大変だからです。喉が痛いのは飲み過ぎ、関節が痛いのはウォーキングのし過ぎと言い聞かせて、いつもどおり現場へ向かい、誰にも不調を悟らせず通訳業務を完遂するのです。

体調不良を完全に隠し通すのが難しい場合には第2オプションとして、体調不良を正直にチームの人々に伝えた上で、「養生しながら稽古する」という手もあります。思い出すなあ。額に冷えピタを貼り、喉の負担を可能な限り軽減すべく狭い稽古場に不釣り合いなマイクを用意してもらい、ヨガマットに横になってひたすら目の前の出来事を通訳し続けた日々を・・・(ここまでの例はあくまでもCOVID-19以前の話です。現在では毎日体温を測り、体調に異変を感じたら速やかに劇団や劇場の責任者に報告することが義務付けられています)。

賢明なる読者の皆さんなら既にお気付きのとおり、ここまでの話を要約すると「何があっても休まない」に尽きます。しかし近年は舞台芸術の世界でも少しずつ労働環境の改善が意識されるようになり、体調不良を押しての稽古参加も問題視され始めていました。そこへ新型コロナウイルスの流行が駄目押しとなり、現在では「正しく休み、自分と周囲を守る」ことが最重要事項となっているので、以前のようなむちゃはしませんし、できません。

代行者探しと引き継ぎ

さて、覚悟を決めて休むとなると当然、代わりに現場に入ってくれる通訳者が必要になりますが、私のようにフリーで活動している人間はエージェントに頼んで代わりを派遣してもらうわけにもいきません。劇場や劇団にお願いしようにも、日頃から複数の通訳者と付き合いのある組織というのは決して多くありませんし、まして英語以外の言語となるとまず期待できないのが現実。病身に鞭(むち)打って自分で探すことになります。

ただ、以前にこの連載でも書いたとおり、舞台芸術の通訳者は基本的にチームで仕事をする機会が少ないので、意外に横のつながりがありません。少なくとも私の場合、人柄も能力も知っていて信頼できるほどの人はごくわずかで、皆さん優秀な先輩方なので常に売れっ子。いきなり連絡してもまず空いていない。かといって、どこかの劇場やイベントなどであいさつした程度の方に大切な仕事の代役をお願いするのは難しいし、万一何かあれば自分の信用にも関わるし・・・などと考えながらさまざまな人の顔を思い浮かべ、一縷(いちる)の望みを託して連絡し続けます。

運よく引き受け手が見つかったら次は引き継ぎです。仕事の規模にもよりますが、主な通訳業務(稽古、取材、アテンドなど)に始まり、作品概要、チーム構成、稽古の進捗や今後の課題などについて、電話やオンラインなどを駆使してなるべく詳細に伝えます。私などはアーティストの食べ物の好みや宗教上のNG項目に至るまで申し添えます。はっきり言って、通常の通訳業務より引き継ぎの方がはるかに大変です。そういう意味でも、なるべく元気で楽しく働けるよう、出演者以上に健康管理に気を付けようと自戒しつつ、今月はここまで。

次回は戯曲翻訳の現場についてお話しします。どうぞお楽しみに。

※本記事は『ENGLISH JOURNAL』2022年10月号に掲載した記事を再編集したものです。

平野暁人さんの連載一覧はこちらから

平野暁人さんの翻訳本

31歳にして世界三大文学賞の一つ、ゴンクール賞を受賞したセネガル人作家、初邦訳作品!

「この国で、生きていても死んでいても居場所がないのは、同性愛者だけ」

実際に起こった事件を題材にセネガル社会のタブーに切り込み、集団の正義のために暴力を行使する人間の根源的な愚かさと、社会から排斥されることへの潜在的な恐怖を克明に描いた衝撃作。

平野暁人(ひらの・あきひと)
平野暁人(ひらの・あきひと)

翻訳家(日仏伊)。戯曲から精神分析、ノンフィクションまで幅広く手掛ける他、舞台芸術専門の通訳者としても国内外の劇場に拠点を持ち活躍。主な訳書に『隣人ヒトラー』(岩波書店)、『「ひとりではいられない」症候群』(講談社)など。Twitter: @aki_traducteur

トップ写真:Kelly Sikkema from Unsplash

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