殺人事件で大きく運命が変わった女性たちを描く一冊【EJ Culture文学】

今回、翻訳家の樋口武志さんが取り上げるのは、関係する女性たちの視点から、ある連続殺人犯の死刑執行までを描く小説『Notes on an Execution』です。

人間は悪にもなり得る。ただそれだけ。

Notes on an Execution, Danya Kukafka (2022)

連続殺人犯を題材にした映画や小説は数多く存在するが、アメリカの作家ダーニャ・クカフカの小説『Notes on an Execution』が焦点を当てているのは殺人犯でも被害者でもなく、その殺人事件によって大きく運命が変わった女性たちだ。

作品の構成も特徴的で、既に捕まっている連続殺人犯アンセル・パッカーの死刑執行までの12時間がカウントダウン形式で描かれる。そうやって彼の心情や回想が描かれる合間に、女性たちの章が挿入される。カウントダウンがゼロに近づいていくにつれ、過去の回想が現在へと追い付いていき、彼が殺人を犯して逮捕された経緯や、女性たちの人生が明らかになっていく。

取り上げられている女性は主に4人。夫の暴力から逃れて子供(後の連続殺人犯)を保護施設に預けた母親。犯人に殺された女性の双子の姉。殺人犯と同じ里親のもとで育った女性刑事。そして犯人の弟の娘。この作品は創作であり、実在の事件とは関係がない。

この本の面白さは、「完全な悪人はいない。完全な善人もいない。私たちは皆等しくその間の濁った灰色の中で生きている(No one is all bad. No one is all good. We live as equals in the murky gray between.)」という作中の言葉に象徴されるように、説教じみた「正しさ」が徹底して避けられている点にある。

殺人犯のアンセルも完全な悪としては描かれず、違う境遇だったらどうなっていたかという視点や、彼なりの葛藤が描かれる。また、女性たちも完全に無垢(むく)な存在として描かれるわけではない。そもそもアンセルを里子に出した母親は何十年も子供たちと連絡を取ろうとしなかったわけだし、女性刑事も強引な捜査で痛い目に遭う。

殺人犯を断罪するのでもなく、女性たちを一方的に美しくたくましい存在として描くのでもない。その点が好感を持てる。

だが個々の登場人物は、そんな中立的な視点を持っているわけではない。登場人物それぞれの視点を通すことで、女性や悪というものを重層的に捉えることができるようになる。

例えば「女性」という点では、子を持つ母として、妹を持つ姉として、(警察組織という)男社会で数少ない有色人種の女性として、完全に美しく正しいわけでもない灰色の視点がそれぞれ描かれている。また、連続殺人犯のアンセルに対しては、犯人の親、被害者の姉、容疑者を追う刑事、犯人の親族というさまざまな視点が用意されることで、憎しみから愛情までのグラデーションが描かれる。

この小説には、何が善で何が悪かを決め付けるような「正しい」メッセージは存在しない。「人間は悪にもなり得る。ただそれだけ(A person can be evil, and nothing more.)」なのである。

物事は、それを白だと思う人から黒だと思う人までグラデーションがあり、常に濁った灰色だと言える。しかし、そうであっても罪は罪として裁かれねばならない。そういう現実が、死刑執行までのカウントダウンや事件の捜査というスリリングな展開を通して、うまくすくい取られている。

今回紹介した本

ENGLISH JOURNAL ONLINE編集部
文:樋口武志(ひぐち たけし)

翻訳家。訳書に『ウェス・アンダーソンの風景』(DU BOOKS)、『insight』『異文化理解力』(共に英治出版)、『ノー・ディレクション・ホーム』(ポプラ社/共訳)などがある。
Twitter: https://twitter.com/Takeshi_Higuchi

※ 本記事は『ENGLISH JOURNAL』2022年7月号に掲載した記事を再編集したものです。

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