翻訳の世界では、テクノロジーの進化により業界が大きく変革されています。機械翻訳や生成AIがもたらすメリットはなんでしょうか。そして、人とAIがどのように協働すれば翻訳業界はより良くなるのでしょうか――。翻訳者・丸山清志さんと共に、翻訳の未来を考えてみましょう。
目次
翻訳の仕事をAI化する本当の目的
翻訳の世界にも機械化、自動化、AI化の波が押し寄せてきています。
いわゆる実務翻訳の世界では、特にその動きが顕著です。
この話をすると、「人間とAIのどちらの方が翻訳するのがうまいか」とか「人間の仕事がなくなる」とかいう議論になりがちですが、そもそも機械翻訳の技術が開発されている目的は、翻訳に付きものだった主に二つの問題を解決するためでした。
それは「コストの高さ」と「品質の不安定性」です。
「コストの高さ」は、平たく言えば翻訳にはお金がかかるということで、安くする方法の一つとして機械翻訳の技術が開発されてきました。
二つ目の「品質の不安定性」は、つまり翻訳の品質が翻訳する人によってまちまちだったということです。
そして、機械翻訳の技術は、生成AI技術の発達も相まってこのところ目覚ましい発達を遂げています。
ところが、技術が発達して、機械による翻訳も仕事で使えるレベルになってくると、次の二つのことが分かってきました。
自動翻訳の技術が発達して分かってきた二つの問題
翻訳ツールの複雑化
一つは、翻訳ツール自体が非常に複雑化してしまい、素人が扱うのが非常に困難なものになってしまうことです。
10年前の翻訳ツールは、原文を入れると訳文をパッと出してくれるものでした。しかし、出てくる訳文は素人目にもうまいとは言えない、稚拙な代物でした。
改良を重ね、新しい技術を開発した結果、最近の翻訳ツールは良くなってきたのですが、その代わり、正確で質の高い訳文を出そうとすればするほど、原文に工夫を加えたり、ツール内の辞書を整えたり、分野ごとに設定を変えたり、ツールを使った作業が複雑化してしまいました。
設定に加える手を細かくすればするほど、翻訳の精度が高くなりますが、そのために翻訳ツールにはさまざまな機能が加えられ、その結果、ツール自体が使い方の勉強や練習を十分に重ねないと使えないものになってしまったのです。
最近では、翻訳者が翻訳会社に登録をする際、どのメーカーの翻訳ツールを使えるか、使えるツールの習熟度についても登録をすることも多くなっています。使えるツールによって、担当できる案件も変わってくるというわけです。
パイロットが、所持している免許別に操縦できる飛行機が違うのに近い状況です(パイロットと翻訳者の仕事の共通点については、前回の記事をお読みください)。
生成AIや機械を導入したのは良いものの、使い方に習熟した人でないとそのツールが扱えないという、大変厄介な状況になってきているのです。
機械翻訳の質の保証
技術が発達して、機械による翻訳も仕事で使えるレベルになってきて分かってきたことの二つ目は、生成AIを含む機械翻訳の信頼性を誰がどう担保するのかという問題です。
翻訳ツールが素人には使えないという厄介な状況になっているのは、その技術が未熟だからだと考える人もいるかもしれません。いずれ技術がさらに発達して、習熟した人の手を借りずとも、AIが自動でポンと完璧な訳文を出してくれるようになるのではないでしょうか。
仮に、将来的にAIが人間の手を借りずに独りで完璧な訳文を出してくれるようになったとしましょう。
しかし、そこで大きな問題が発生するのです。
そのAIの生成した翻訳の信頼性を、誰がどうやって保証してくれるのでしょうか?
AIがどんなふうに翻訳を出してくれるようになったら、「よし、これからのAIは間違えない、完璧だ」と私たちが言えるようになるのでしょうか?誰がAIの出してくれた訳文が最適で正しいと判断するのでしょうか?
既に多くの検証がなされていますが、生成AIをはじめとする機械が生成する翻訳に誤訳や訳抜けが少なからずあることが分かっています。
プロでなければ分からない間違いから、誰が見ても明らかな単純な数字の写し間違いまで(そこまで人間らしくしなくてもいいのに・・・)。
正しいときもあれば、間違っているときもあり、絶対に間違うわけでもなく、絶対に正しいわけでもありません。
いつどうなればAIが「間違いをしなくなった」と判断され、誰がそのお墨付きを与えるのでしょうか?どこか誰かの偉い人ですか?それとも、AI自身が証明するのですか?
生成された訳文が正確で質の高いものであることを保証してくれる誰かがいない限り、その翻訳を完全に信頼することができません。
その保証をしてくれる人は、原文と訳文を正しく読み、正誤を証明できなければなりません。
確か、そんなことを職業にしている人がいたはずですが・・・
そう、人間の翻訳者です。翻訳者は今も昔も、そういう仕事をしてきたのです。
結局、機械を使うにしてもAIに自動翻訳してもらうにしても、能力の高い誰かがその訳文の正確性や質の高さを保証しなければならないのです。
翻訳を自動化する二つのメリット
コスト削減
では、そこまでして厄介な機械翻訳やAIを導入しなければならないのでしょうか?
AIを含む機械翻訳を導入するのには、実際にメリットがあります。
一つは、冒頭で少しお話したとおり、AIや機械翻訳を使って自動化して、コストを下げることができます。
自動化でコスト削減が実現した仕事は、世の中に山ほどあります。電話通信、電車、飛行機、エレベーター、倉庫内業務など、例を挙げれば切りがありません。
建築やパイロットと同様、翻訳の全プロセスの自動化には無理があります(建築とパイロットの例については前回の記事をご参照ください)。
しかし、繰り返し出てくる訳文の自動適用や品質チェックの機械化など、自動化できる部分に機械を導入することで、これまでの人件費に比べて格段に安くなることは確かです。
品質の安定性
機械翻訳を導入するメリットのもう一つは、「品質の安定性」です。これは翻訳業ではとても重要なことです。
翻訳の品質は翻訳する人の腕に左右されてブレが大きく、品質の安定性が長年の課題でした。
良い翻訳者の人材不足も問題であり、質の高い翻訳者に仕事は集中しがちで、おまけに質の高い翻訳者は高い報酬を取ります。
しかし、機械を導入することで、その問題が少し解決するのです。
簡単に言えば、翻訳ツールに質の高い訳文や語彙を蓄積して、質の高い翻訳者の訳文や知識をみんなで共有するのです。
こうすることで、一つのプロジェクトを複数の翻訳者が担当しても、それぞれの知識やスキルのばらつきの影響を抑え、翻訳の質を統一することができます。
ただし、だからと言って、質の低い翻訳者が質の高い仕事ができるということにはなりません。
そもそも質の高い仕事をできる実力がない人は、質の高い訳文を目の前にしても、それをどう訳文の中に導入すれば良いか判断できません。
翻訳者は、AIや他の人が書いた翻訳の適切性や正誤、質も判断して、全体として適切な訳文を作成することも求められます。ですので、翻訳者本人のスキルは必要になります。
AIが生成した訳文が役立ったという経験は、私にも実際にあります。
自分の書いた訳文に納得できず、「もっと他に良い表現方法があるのではないか?」と悩むことが時々あります。
ある利用規約の翻訳の仕事で、私がそんなふうにモヤモヤ悩んでいたとき、AIに訳させてみたら、意外に良い訳文を書いてくれたのです。
翻訳に一つの「正解」というものはないですが、それゆえに「他の翻訳者やAIが書いた訳文の方が良い!」ということもあるのです。
もちろん、そこに手を加えたり、前後の文章になじませたりといった作業は必要でしたが、おかげで、自分が考えた訳文よりもすっきり分かりやすい、利用規約らしい言い回しの訳文ができましたし、そこであれこれ考えて書き直す時間が節約できたのも良かったです。
締め切りに追われ、次から次へと異なるジャンルの仕事をこなさなければならない翻訳の現場では、じっくり考えている余裕が、物理的にも精神的にもないのです。
また、機械翻訳の導入により、人的ミスを回避することもできます。
専門用語の誤用がないか、表現の統一がなされているかなど、機械による品質チェックは最近では当たり前で、工事現場の命綱のような働きをします。
機械の導入は業務の迅速化にもつながります。一人でやるよりも分担した方が早く完成し、その際の表現の統一や品質チェックにかかる時間も短縮できます。
機械翻訳を導入したことで、翻訳業界全体にとっても良いことがありました。
今までは翻訳を依頼しなかったような人たちからも、仕事が入ってくるようになったのです。一人では到底できないような大型の案件や、納期がとても短い案件なども、多数の分担することで可能になったからです。
AI化時代に翻訳者は何をすればいいのか
これからは、機械やAIを使わない翻訳の仕事は考えられないでしょう。
機械翻訳には未熟な点もありますし、人間でなければできないところもありますが、AI化・自動化することで、品質向上だけでなく、誤訳などのミス防止による安全性の向上、作業する翻訳者の負担軽減、さらには業界全体の機会拡大にもつながります。
もちろん、機械に頼らずとも真っすぐきれいな線を引くことができる職人さんはいるでしょう。しかし、機械を利用すれば、その職人さんだけに頼らずとも、他の人もその仕事をできるようになるのです。
ただ、その機械の扱い方は簡単ではなく、習熟した職人でなければ使うことができないというのがデメリットです。
AIは競争相手ではなく仕事の相棒
テクノロジーを活用した自動化は、製造業や建築業だけの話ではなく、翻訳の世界でも起こっていることであり、今後はますます進化し、使うのが当たり前になっていくでしょう。
AIや機械翻訳の話になると、「AI対人間の争い」のような議論になりがちですが、実際には、翻訳の仕事には自動化できる部分とできない部分があり、AIなどの機械ができる部分と人間が介入すべき部分との区別が今後はさらに明確になり、分業化が進んでいくというのが自然の流れでしょう。
確かに、翻訳の仕事の機械的な部分だけ(単に言語を置き換えるだけの仕事)をやってご飯を食べてきた人は、今後は仕事の場を機械翻訳やAIに取られてしまいます。
しかし、翻訳の仕事はそこだけではありません。機械的な作業が自動化されたからといって、翻訳のプロセスから人間の仕事がなくなるわけではありません。翻訳の仕事はもっと深く複雑なのです。
これからの翻訳の仕事は、誰でもできるような単純作業の部分は機械化が進んでいき、一方で人間はクリエティブな部分に専念して、専門性の高い仕事に特化していくことになります。
さらに、ITの発達とグローバル化が、翻訳業界の拡大を後押ししてくれます。
機械翻訳技術の発達で、高度なローカライズや分業も可能になり、働く場所や時間に制約のある人たちが参加しやすくなるという魅力もあります。
AIを含む機械翻訳は人間の仕事を奪う競争相手ではなく、力を与えてくれる相棒として、特に翻訳の仕事においてはますます欠かせない存在になっていきます。
本文写真:Cristiano Firmani from Unsplash