自分で英語を話すことで、初めて「人」は「人」になる~機械翻訳の使い方【言葉とコミュニケーション】

連載「言葉とコミュニケーション」。第29回は「人工知能」「機械翻訳」について。この先、自分で英語力を磨き、自分で英語を話すことになんの意味があるのか。脳科学者・茂木健一郎さんにお話しいただきます。

私たちを取り囲む言語的日常の変化

人生には、「むむむ!」と思う瞬間があるもので、半年ほど前、びっくりしたことがあった。

ある方と対談をしていたのだけれども、なんだかやたらと脳科学、認知科学の最新の論文の動向に詳しい。「随分勉強されているのですね、英語もお得意なのですね」と伺ったら、いや、そうではありませんという。

「ではどうやって?」と聞いたら、有名な翻訳ソフトを使っているとのことだった。このソフトは、一部有料になるけれども、ファイルごと翻訳してくれる。オンラインの環境にあるソフトを用いて、英語の論文のPDFを全て日本語に訳して、その概要を把握しているとのことだった。

へえ、そんな時代が来ているんだなあと驚くとともに、人工知能を巧みに使って最新の研究動向を探っている対談のお相手に心から尊敬の気持ちが湧いた。

最近学生たちと話していると、同じようなやり方をしている人によく出会う。学部学生がゼミなどで英語の論文を読まなくてはいけないときに、翻訳ソフトで日本語にして概要をつかんでいるのだという。場合によっては、大学院生でも同じような方法を使っていることがある。

人工知能の能力が向上して、私たちを取り囲む言語的日常が変化していることを実感させる出来事であった。

「人工知能効果」がもたらすリスク

脳科学をやっていると、このところの人工知能の発達もあって、果たして英語を学ぶ必要があるのかという質問をよく受ける。翻訳ソフトが充実して、そのうち英語ができなくても困らなくなるんじゃないかというのである。

確かに、論文の概要を把握する場面などでは、日本語への翻訳ソフトを用いると便利なことがあるかもしれない。また、会話の内容もリアルタイムで翻訳される時代が来つつある。リモート会議のアプリにもそのような機能が付き始めている。

それでも、私は、生身の人間が人工知能の助けを借りないで英語を理解し、書き、話せることには価値があり続けると考えている。その理由は幾つかある。

まず、人工知能の助けを借りて英語話者と会話するのと、自分で英語を話すのとでは、脳の神経回路の使われ方が全く違うということがある。脳は油断をするとすぐにさぼる。「この情報は後にGoogleで検索できる」と思うと記憶への定着が悪くなる「Google効果」の研究は話題を呼んだ。同様に、英語をちゃんとやらなくても、どうせ人工知能が翻訳してくれるだろうと思って英語回路の発達が遅れる「人工知能効果」は必ずある。そのリスクは「今ここ」にあると言えるだろう。

自分の脳が実際に働いて英語をやりとりするのと、人工知能の助けを借りて会話するのでは、脳の使われ方が全く違う。他の言語を学ぶことの意味は、世界についての異なる見方、考え方、コミュニケーションの仕方を身に付けることである。ある小説家は、良い作品を書く秘訣として、何か一つ外国語を徹底的にやるというアドバイスをしたそうだ。村上春樹さんがそのデビュー作『風の歌を聴け』を、まずは英語で発想したのは有名な話である。

たとえ人工知能の助けを借りて英語のコミュニケーションができたとしても、それでは脳がさぼって、自分自身を耕すことにはならない。やはり、人工知能などには頼らずに、自分自身で英語を理解し、話し、書くことの価値はかけがえのないものだと言えるだろう。

英語のクオリティーチェックは誰がやるのか

脳の回路の発達という側面だけでなく、英語を大いに学ぶことには実際的な意味もある。端的に言えば、言語表現のクオリティーを自分で判断できるという価値である。

人工知能が英語を日本語に直す場合、個人差があるとしても、日本語の話者はその日本語の質を判断できるだろう。以前、翻訳ソフトが生成した日本語が、なぜかチェックを受けずにそのまま単行本として印刷されてしまったという「事件」があった。商業出版として「売り物」になるレベルかどうかは別として、翻訳ソフトの文章は最終的に人間がチェックしないと危うい。

たとえ、将来的に人工知能の性能が向上して、人間と遜色ないクオリティーの文章が生み出せたとしても、その価値を判断するのはあくまでも人間である。このことは、一般に人工知能は「評価関数」が定まれば、それを最適化することは得意だが、その評価関数を生み出すのは人間だけだという事実と関係している。

私自身、自分の著書『脳とクオリア』を英訳するプロジェクトを進めているが、まずは下訳で翻訳ソフトを使っている。ただ、そのままでは使いものにならない。やはり、1文ごとに手を入れていくしかない。その際に基準になるのは自分の「このような英文が良い」という感覚であって、その感覚を磨くためには、自分自身の英語力を高めるしかない。

もちろん、翻訳ソフトを使うことは、時間を節約するという意味においては大いに役立つ。しかし、最終的なクオリティーの保証をするのは、結局自分の感覚である。その感覚を磨かずに人工知能任せにすると、思わぬ失敗をすることになりかねない。

自分の脳で英語ができることの価値

ビジネスでも、プライベートでも、文章の持つ力はこれからますます重要になってくる。その際、たとえ途中で人工知能の助けを借りて作業を効率化したとしても、最終的には自分自身の感覚で文章をファイナライズしなければ最高の成果は出ない。

結局、生身の自分の脳で英語ができることの価値は変わらないのである。

以上述べたことは、言葉を通して表れるその人の「個性」の問題にも大いに関係している。

現在の自然言語の人工知能は、大量のテキストを学習しているので、バランスはいいが、一方で個性がない。私たち一人一人の文章に表れる個性は、結局、その人の人生の経験、知識、時代、周囲の人々などを総合したものである。

人工知能に丸投げしてしまうことは、究極的に言えば、自分の個性を捨ててしまうことになる。どんなにつたなくても、自分の脳で英語を話すことで、初めて「人」は「人」になるのである。

茂木健一郎(もぎ・けんいちろう)
茂木健一郎(もぎ・けんいちろう)

1962年東京生まれ。脳科学者、作家。ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。東京大学大学院客員教授。東京大学大学院物理学専攻課程を修了、理学博士。「クオリア」(感覚の持つ質感)をキーワードとして脳と心の関係を研究するとともに文芸評論、美術評論にも取り組んでいる。

写真:山本高裕(ENGLISH JOURNAL 編集部)

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