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「人称」の差が生む印象の違いとは?ノーベル文学賞作家から学ぶ人称の書き換え  

クリエイティヴ・ライティング VOL.9

連載「クリエイティヴ・ライティング入門講座」では、立命館大学の吉田恭子さんが、読者の皆さんと一緒にクリエイティヴ・ライティングについて考えていきます。本講座の最終回となる第9回目では、「人称」を書き換えるとどのような効果が生まれるか、短編小説の具体例を読みながら学んでいきます。

短編小説にみる人称の書き換え

小説の人称を書き換えるとどうなるか、今回は短編の名人による実例を見てみましょう。

三人称で書かれた小説の原稿を一人称に、また逆に一人称を三人称に書き直すのは、英語創作のエクササイズの定番のひとつです。人称や視点に従って描ける射程が変わることが実感できます。この連載初回でも、個人的な記憶を三人称で描く課題で人称書き換え練習のバリエーションに挑戦してもらいましたし、最近、翻訳が刊行されて評判のよいアーシュラ・K・ル=グウィンの創作技巧本『文体の舵をとれ』でも、その名もズバリ「動詞:人称と時制」の章で同様の人称書き換え練習問題が登場します。

とはいえ、宿題や課題として取り組むエクササイズとして見ている限りは、人称の書き換えは、まるで英語文法問題のような、ピアノの運指練習のような印象を与えてしまうかもしれません。人称の選択が英語小説にとっていかに核心的な問題か、今回は2013年にノーベル文学賞を受賞したカナダの短編小説家アリス・マンロー(1931~)の書き換えの例に学んでみたいと思います。

マンローの短編は個人の人生のある地点、小さな場所・世界から始まりますが、物語が進むにつれその人が歩んできた道と周りの人々との交差路が徐々に明らかになり、最初は何の特別なドラマもないように見えた「今ここ」が、人生を俯瞰(ふかん)するような感覚で読者の前に鮮やかに立ち上がってくる瞬間が訪れます。マンローは時間の操作に極めて長けた小説家ですが、見るからに技巧性を前面に押し出す作風でもないため、わたしは彼女の短編のクライマックスで足元をすくわれるたびに、小さな魔法を目撃するような気持ちになります。そんなスタイルですから、人称や視点の選択による微妙な効果が重要になってきます。

「三人称語り」と「一人称語り」の差が生む印象の違い

1982年刊行の短編集『木星の月』(邦訳は横山和子訳で1997年)所収の「ダルス」は、詩を書く傍らトロントで編集の仕事をしている離婚歴のある女性リディアが、カナダ東部のグランドマナン島をひとりで訪れ、心の中を整理しようとする物語です。リディアは1年半にわたり同棲してきた男性と破局したばかり。今回のひとり旅では今までのように男性の好奇の視線を感じることがなく、女として中年にさしかかっていることを意識させられることになります。島の民宿には、長距離電話海底ケーブル設置工事に従事している3人の作業員が常連として滞在しており、年齢も性格も違う3人の男たちが彼女の視線を通して描き分けられます。また、島にゆかりの作家ウィラ・キャザー(1873〜1947)について調査をしている新聞社を定年退職したスタンリー氏との交流も描かれます。小説の冒頭を見てみましょう。

At the end of summer Lydia took a boat to an island off the southern coast of New Brunswick, where she was going to stay overnight. She had just a few days left until she had to be back in Ontario. She worked as an editor, for a publisher in Toronto. She was also a poet, but she did not refer to that unless it was something people knew already. For the past eighteen months she had been living with a man in Kingston. As far as she could see, that was over. (Alice Munro, “Dulse,” 1982)

とても含みのある幕開けですね。トロントやニューブランズウィック、オンタリオ、キングストンといった地名が小説の舞台に具体性や地理的規模感を与えると同時に、ひとところに落ち着くことがなかったリディアのここ数年の暮らしぶりを端的に表現しています。

季節は「夏の終わり」で、この一泊小旅行が取り損ねていた休暇であることを示唆するとともに、リディアもまた女盛りの時を終えようとしているという短編全体のテーマが冒頭から仕込まれています。またリディア自身のアイデンティティーは経済職業的な身分(大都会の出版社に勤める編集者)と芸術的求道心(詩人)のアンビバレンスの上に成り立っていることが明示されています。その一方で、段落の最後で触れられる名前も出ない恋人との破局については、かなりぼやかされているのが気にかかるところです。

冒頭が示唆するように、中年を迎えた女性が旅先で自分の心もちを仕切り直す機微を描くこの短編は、知らない人々とのやりとりを通じて、今の自分に至る思い出や現在の心境を見直すリディアの意識が主眼となっています。本作は一貫してリディアに視点を限定した三人称を採用し、主人公の微細な心の内を描いています。

ところが本作は当初、一人称語りの小説だったのです。1980年7月21日号の『ニューヨーカー』に掲載された「ダルス」の冒頭を見てみましょう。

At the end of summer I took a boat to an island off the southern coast of New Brunswick, where I was going to stay overnight. I had just a few days left until I had to be back in Ontario. I work as an editor for a publisher in Toronto. I am also a poet, but I don’t refer to that unless it’s something people already know. For the past eighteen months I had been editing part time, coming into Toronto every month or so, while living with a man in Ottawa. As far as I could see, that was over now. (Alice Munro, “Dulse,” 1980)

一人称と視点が限定された三人称の語りができることは、実はよく似ています。どちらも語り手もしくは視点人物が見たり聞いたり考えたことしか描くことができません。そしてふたつの冒頭が告げる情報はほぼまったく同じです。それにもかかわらず、このふたつを読み比べると、かなり違った印象を与えます。一人称の語り手の方が、自らの短所も含めて自己を相対化できている人格であるように見えます。小説的独白とはいえ、自分自身についてこれだけのこと(例えば、自分は詩人だが、自分を知っている人の前でしかそれを認めない、といった点)を断言できるキャラクターなのです。また、一人称の語りの方が主人公の自意識を強調する点において、主観的な印象を与える部分もあります。例えば、失恋に触れる最後の部分は、まだ恋の余韻に少し酔っているような名残りを読みとることができるでしょう。三人称の場合、視点はリディアに限定されているので、彼女についての情報はたしかにリディア自身も認めていることのはずです。それでもそれが本人の口から告げられるかどうかで、人物の印象が変わるのです。

また、人称の変換による改稿は、単なる主語と動詞の機械的な書き換えでないこともふたつの段落を読み比べると明らかになります。段落の後半部分、雑誌掲載版はところどころ現在形を用いていますが、単行本収録版では過去形に書き換えられています。前回、小説の語りの時制が変わるとそれに伴い表現できる動きや範囲が変わることに触れましたが、ここでも同様のことが起こっています。まったく同じ情報を同じ表現で伝えているのに、一人称から三人称に変えると現在形ではしっくりこないという判断が作者の内に働いたことがわかります。どれだけ視点人物に密着していようとも、三人称には一人称よりも距離を感じてしまうのです。それが時制にも反映しているといえるでしょう。

人称の変化が生む細部の変化に注目

短編の他の箇所では、雑誌版が過去形になっている一方で単行本版が現在形になっている箇所も見られます。そのような使い分けも人称が違うがゆえに生じたニュアンスの差なのです。

短編の終盤、恋人に散々傷つけられた上に、年とともに男性との縁が薄くなっていく自分への哀れみからか、リディアはキャザー愛好家のスタンリー老人に意地悪な発言をしてしまいます。キャザーが島の女性に結婚相談を受けたというエピソードを彼に聞かされ、女性パートナーと暮らしていたキャザーに男と暮らすことのなんたるかがわかるわけがないといった趣旨の嫌味を言ってしまうのです。ところが、彼もまた同性との秘めた恋を生きてきた可能性が小説のはじめで示唆されており、リディアは熱烈にキャザーを信奉する彼を傷つけてしまったかもしれないと後悔します。まずは雑誌掲載版を見てみましょう。

I made a sound of doubtful assent. That was as much as I could do to apologize for my rudeness. I went to the sideboard and poured myself another cup of coffee. [….] I did not want to go back to the table, but I knew I had to. Mr. Stanley looked frail from behind, with his narrow shoulders, his neat, bald head, his slightly too large brown checked sports jacket. He took the trouble to be clean and tidy, and it must have been a trouble, with his eyesight.

冒頭で渋々同意の声を上げるのが、語り手にとって精一杯の謝罪の表明であるかのようです。気まずくなってその場を離れますが、少し離れた場所から見た老人の佇まいが語り手の同情を誘います。

それでは、単行本収録版はどうなっているでしょうか。加筆のある部分を赤にしています。

Lydia made a sound of doubtful assent. She knew she had been rude, even cruel. She knew she would have to apologize. She went to the sideboard and poured herself another cup of coffee. [….] Lydia did not want to go back to the table, but knew that she would have to. Mr. Stanley looked frail and solitary, with his narrow shoulders, his neat bald head, his brown checked sports jacket which was slightly too large. He took the trouble to be clean and tidy, and it must have been a trouble, with his eyesight. Of all people he did not deserve rudeness.

一人称の語り手にとっては渋々同意してみせることが精一杯であったのに対して、三人称ではそのような態度は謝罪の表明とは受け止められていません。つまり、リディアはここからさらにもう一歩歩み寄ることが求められているのです。テーブルから離れてスタンリー氏を観察することで同情の念がわく展開は同じですが、渋々ながらも謝ったことになっている一人称版にたいして、三人称版では老人への同情と彼を傷つけてしまった後悔が、浮き彫りにされています。

つまり一人称では語り手の心のひだが明らかにされるのに対して、三人称では「謝ったつもり」という主人公のどっちつかずの気持ちに踏み込まない分、スタンリー氏を傷つけた後悔をはっきり描き出しています。

時制や人称や視点の違いがもたらす差異はしばしば微妙な違いであり、この作品でも人称の変化に伴い、小さな細部に改変が加えられていることがわかります。短編「ダルス」は雑誌版も単行本版も完成した作品であるという稀(まれ)な例なので、双方の効果の違いを最初から最後まで比較研究することが可能です。興味のある方はぜひ比べてみてください。

マンローほどの名手でさえ試行錯誤しながら改稿を重ねていたことがわかると、少し勇気づけられる気がします。実際に書き換えてみないとその違いが実感しづらいものなのです。ほかにも、作家のインタビューを読んでいると、長編小説の執筆がかなり進んだところで人称を変更して最初から書き直した、といった話を時々見かけます。

「ダルス」のスタンリー氏によれば、キャザーの最高傑作は『迷える婦人』(“A Lost Lady”)でした。1923年に出版され、『グレート・ギャツビー』のインスピレーションにもなったといわれているこの長編執筆に当たり、実はキャザーも人称の選択で苦労していました。『迷える婦人』は4度の改稿を経ているのですが、第3稿でキャザーは三人称を一人称に書き換え、ところがその後ふたたび考え抜いた挙げ句、第4稿でまたもや三人称に書き直しているのです。

「クリエイティヴ・ライティング入門講座」の連載は今回で終了となります。これまで全国の読者のみなさんに送ってもらった課題を読むのはとても貴重な経験でした! 第二言語で小説を書くことで、新たな表現の手法を獲得するだけでなく、世界の見方・作り方を更新し、母語の運用能力を見直すことが可能になります。今日、母語以外の言語で執筆し活躍する作家や詩人が世界中で増えてきています。そんな書き手にも注目していただけたらと思います。長い間お付き合いいただきありがとうございました。

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吉田恭子

吉田恭子(よしだきょうこ)立命館大学教授。英語で小説を書く傍ら、英語小説を日本語に、日本の現代詩や戯曲を英語に翻訳している。著書に短編集『Disorientalism』(Vagabond Press、2014年)、翻訳にデイヴ・エガーズ『ザ・サークル』(早川書房、2014年)など。