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魅力的な小説を書くには?キャラクターを左右する「声」「時制」「人称」を学ぶ   

クリエイティヴ・ライティング

連載「クリエイティヴ・ライティング入門講座」では、立命館大学の吉田恭子さんが、読者の皆さんと一緒にクリエイティヴ・ライティングについて考えていきます。第8回目では、文学創作のキーとなる「声」、「時制」、「人称」について、具体例を読みながら学んでいきます。

文学創作のキーとなる「声(voice)」とは?

英語創作をする際やワークショップで作品を検討する際に、必ず話題に上がるのが「声(voice)」という概念です。また、人称と時制の問題もしばしばトピックになります。

同じ散文でもエッセーや論説文とは違って、小説では視点や時制を自由に決めることができます。一人称の語り手を据えるか、三人称で語るか、過去形で物語るか、現在形にするかといった判断がその小説のトーンやペースどころか、文字通りの性格(キャラクター)までも左右します。

小説の世界は読者の想像力の中にのみ存在します。そしてそのきっかけになるのはページ上に印刷された言葉です。ところが、英語創作の世界では、小説の言葉遣いを指してしばしば「声」と呼びならわします。文字なのに声だというのです。同じ声の人はふたりといません。現実に存在しないはずの世界を読者の頭の中に立ち上げるほど強度のある言葉遣いは、信ぴょう性があり唯一無二のキャラクターを備えているのです。

声の性格は実に多様な要素が複雑に絡み合って生まれてきます。人間の声の質は発話者の年齢や性別にはじまり、生まれながらの骨格、生活習慣からの体つき、喫煙歴の有無、発声技術の優劣、身に付けた方言特有の発音やイントネーション、しつけや教育による声のコントロール、直接話しているのかそれとも電話越しなのかなどといった状況、その日の健康状態・・・このような無数の条件に左右されます。同様に、小説の語りの声も、例えば一人称の声に限ってみても、年齢やジェンダー、語り手が生きている時代や場所、語彙の多寡、教育や生育歴、出身地や階級、丁寧なのかざっくばらんなのか、誰に向けて語っているのか、書いているのか、しゃべっているのか、息の長短、語っている出来事の経験度(実際に経験したことを語っているのか、傍観者だったのか、又聞きなのか、など)、出来事への距離感や判断、偏見や思い込み、性格(親切なのか、意地悪なのか、など)、真実を伝えしようとしているのか、何かを取り繕おうとしているのか・・・無数の諸要素に左右されるのです。

ところが、魅力ある語りの声の要素を分類・分析して、バラバラに分解した要素を組み立て直せば、負けず劣らず生き生きとした声が生まれるのか?――そうはいかないのが創作の難しいところです。ヘミングウェイの名作短編が何人のキャラクター、いくつの段落、平均何語の文から成りたっているのか、繰り返し使われている単語は何か、などといくら分析しても、読者を引きつける短編執筆にはつながらないことと同じです。

実際のところ、文学作品の執筆には直感やインスピレーションが深く関わっていることは、前回で紹介した本の中でも多くの作家が認めていることです。でも、それは「才能」とか「天才」というあらかじめ書き手の内側に備わっている能力というよりも、書き手の人生経験や思考、好みや性格、読書歴、人々の言葉に耳を傾けて蓄積された言葉遣いなどが、書き手本人にも意識できない想像力の深部で混じり合い醸造され、意識の表面に浮かび上がってくるという現象なのだと思います。

小説の「声」の性格を左右する人称や時制

少し話がそれてしまいました。インスピレーションにつながる部分は、単なる「読書術」ではなくほぼその人の生き方そのものなので、ぜひ前回紹介した作家による創作論に触れてみてください。ここでは、英語で小説を書く際に特有の技巧的問題、とりわけ時制と人称の問題に話を絞りましょう。

人称や時制の選択は小説の「声」の性格を左右すると述べましたが、単に印象が決まるだけではありません。人称や時制によってできること/できないこと、書きやすいこと/書きにくいことが決まってきます。

例えば現在形の小説は単に過去形の地の文を現在形に書き換えただけではありません。実際に試してもらうとわかりますが、動詞によっては過去形から現在形になおすとすわりの悪い動詞(とりわけrain、snowといった状態動詞など)があります。

A man stood upon a railroad bridge in northern Alabama, looking down into the swift water twenty feet below.

アンブローズ・ビアース作「アウルクリーク橋の出来事」("An occurrence at owl creek bridge" 1890)の最初の文です。時間がプロット上大事な役割を負っている作品で、過去形で書かれています。これを現在形に書き直そうとすると(そして実際、この作品を現在形に書き直すのは面白いエクササイズになると思います)、いきなり冒頭から “A man stands” にすべきか “A man is standing” にすべきか悩みます。

つまり、過去形と現在形では微妙に描いているアクションや動作の射程が異なり、与える印象も変わってくるのです。

英語の過去形は日本語とは違う論理と文法構造から成りたっています。日本語の小説では、例えば地の文に過去形と現在形が入り交じっていても、それはある時間に起こった/起こっている一連の出来事だという了解が成り立ちますが、英語ではそうはいきません。現時点より以前のことは一貫して過去形・大過去形を用いて表現します。

The hills across the valley of the Ebro were long and white. On this side there was no shade and no trees and the station was between two lines of rails in the sun. Close against the side of the station there was the warm shadow of the building and a curtain, made of strings of bamboo beads, hung across the open door into the bar, to keep out flies.

これはヘミングウェイの短編「白い象のような丘」(“Hills Like White Elephants” 1927)の冒頭部分です。ヘミングウェイの三人称視点の文体はときに「劇的な三人称」と評されます。ここでの「劇的(ドラマチック)」とは「感動的」という意味ではなく、「演劇的」という意味で、演劇の観客にとって、登場人物の内面が不可視で、表面に現れる行為や発話しか見聞きできないことを指しています。つまりあの有名なヘミングウェイの「氷山の一角理論」です――氷山の水面上に出ている部分のみを言語化することで、水面下で起こっていることに思い至らせるような手法を指して「劇的」というのです。

この冒頭を現在形で書き直してみましょう。

The hills across the valley of the Ebro are long and white. On this side there is no shade and no trees and the station is between two lines of rails in the sun. Close against the side of the station there is the warm shadow of the building and a curtain, made of strings of bamboo beads, hung across the open door into the bar, to keep out flies.

なんだか、文字どおり「劇的」――戯曲のト書きのような調子になってしまいます。

技術上はこの小説を現在形で書き直すことは可能です。けれども、そうすると、この作品の強みである簡潔な言葉で描かれながらも感じられる運命的な雰囲気が薄れてしまうような気がします。

過去の出来事を回想する語では、現在形と過去形の両方を使うことで、時間の奥行きや重層的な意識を描き出すことができます。例えば、ヘンリー・ジェイムズの中編「アスパンの恋文」(“The Aspern Papers” 1888)では、冒頭のわずか数行で現在形、現在完了形、過去形、過去完了形ばかりか仮定法まで加わり、回想される過去にさえ複数のレイヤーが重なっていることが示唆され、これが小説全体の伏線となっています。

もっとシンプルな例として、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』(“The Catcher in the Rye” 1951)の冒頭を見てみましょう。

If you really want to hear about it, the first thing you’ll probably want to know is where I was born, and what my lousy childhood was like, and how my parents were occupied and all before they had me, and all that David Copperfield kind of crap, but I don’t feel like going into it, if you want to know the truth.

主人公で語り手のホールデン少年が、二人称の聞き手/読者に向けて、自分が療養するに至ったいきさつを語り始める部分ですね。

小説は現在形ではじまりますが、ホールデンが過去の出来事を回想している箇所では、一貫して過去形を用いています。それが英語の文章における決まりだからです。と同時に、彼の語りの「声」はおしゃべりのようなトーンが特徴でもあります。しゃべっているけど、書かれている――一人称小説の中にはそういう不思議なゾーンから「声」が聞こえてくる作品がいくつもあります。

『ライ麦』から10年後に出版されたジョン・アップダイクの短編「A&P」(1961)の語り手サミーもしゃべっているような「声」で語るティーンエイジャーです。以下は、保守的な小さな町のスーパーに水着の少女たちが入ってきたのを見て、レジ係の語り手の先輩の同僚ストーケジーと盛り上がっている場面です。

“Oh Daddy,” Stokesie said beside me. “I feel so faint.”

“Darling,” I said. “Hold me tight.” Stokesie’s married, with two babies chalked up on his fuselage already, but as far as I can tell that’s the only difference. He’s twenty-two, and I was nineteen this April.

“Is it done?” he asks, the responsible married man finding his voice. I forgot to say he thinks he’s going to be manager some sunny day, maybe in 1990 when it’s called the Great Alexandrov and Petrooshki Tea Company or something.

同じ場面であるのにsaidやasksなど時制が入り混じっています。文章では時制を統一させることがルールでも、実際に話しているときはこのように時制が混在するのが普通です。より現実のおしゃべりに近い時制の使い方、といえるでしょう。

とはいえ、 “the responsible married man finding his voice” といった分詞構文(分詞構文は小説の描写でよく見られます)は、やはり文章的です。

サリンジャーのホールデンも、アップダイクのサミーも、当時のスラングを交えつつしゃべっているような語りを展開していますが、よく見ていくと、実はおしゃべりをそのまま忠実に文字起こししたわけでないこともわかります。このように、書かれたテクストとして制御されているのに、声が聞こえてくる――ある種の一人称の語りの独特な効果です。

また、「A&P」は『ライ麦』に比べるとはるかに短く、しかも、小説の結末は過去形を使ってはいるとはいえ、これから先のことがまったくわからない終わり方をします。現在形を混用して物語を進めることで、より「今起こっている」印象が強まり、結末の未来が見えない雰囲気を醸し出す効果があるといえるでしょう。

時制や人称の使い分けは物語の信ぴょう性も左右する

このように、時制や人称の使い分けによって、物語の信ぴょう性や、そこで起こる出来事の印象を操作することができるのです。

最後に、時制や人称を意識的に操作することで紙一重の効果を上げている例として、J・M・クッツェーの自伝三部作を紹介します。第二作『青年時代』(“Youth” 2002)の冒頭場面のしめくくりの箇所を見てみましょう。

What will cure him, if it were to arrive, will be love. He may not believe in God but he does believe in love and the powers of love. [….] For he will be an artist, that has long been settled. If for the time being he must be obscure and ridiculous, that is because it is the lot of the artist to suffer obscurity and ridicule until the day when he is revealed in his true powers and the scoffers and mockers fall silent.

自伝は実際にあったことの回想ですから、通常一人称の過去形を用います。ところがクッツェーはこの作品で一貫して現在形を使い、自分の青年時代を三人称で描いているのです。どれだけあまのじゃくなのでしょうか。それどころか、その戦略がこの作品に重層的な自己批判の効果を与えるだけでなく、自らを突き放すような自虐的ユーモアを醸し出しています。

貧乏学生の主人公は大学図書館でアルバイトをしながら、閉館後の書架に白いドレスを着た美少女が現れ知性ある自分と結ばれることを夢想したりしつつ、地味に日々の仕事をこなしています。もちろん美少女は現れないわけですが、「いつの日か彼を癒やすものがあるとすれば、それは愛だ。神は信じないかもしれないが愛の力は信じている・・・彼は芸術家になると決心したのだから」といった内的独白で描かれる青年の過剰な自意識はあまりにイタくて、私なんかは何度読んでもまともに読み続けられず、毎回恥ずかしさと痛々しさとで思わずいったん本を横に置いて顔を歪(ゆが)めて笑ってしまうほどです。

でもこの語りのすごいところは、容赦なく自らを突き落として笑いを誘う一方で、はたから見ると滑稽でバカバカしいほどの青年の思いに真顔で徹底的に寄り添おうとしているところです。この突き放しているのに誠実な感じが絶妙なのです。

ためしにこの場面を一人称や過去形を使って書き直してみてください。途端にバランスが崩れてしまい、はなもちならない語りになったり、仮定法や間接話法などの助けを借りなければならなくなって説明的になったりして、ヒリヒリするような感触を失ってしまいます。

このように、人称の選択と時制の制御は小説の印象を決定づける大切な要素です。次回も続けて具体例を見ていきましょう。

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