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翻訳の倫理──他者とともに生き延びるために【翻訳を哲学する】

翻訳論Vol.3

翻訳は原作に対して二次的で付随的なものだとみなされることも多いですが、実際にはそれは単なる模倣ではなく、他者とともに生きていくための倫理的な営みでもあります。この連載では、哲学がご専門の柿木伸之さんと一緒に、「翻訳」について深く考えていきましょう。

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翻訳は文学と文化を創る

翻訳は創造する。ベンヤミンの翻訳論によれば、詩的な作品の優れた翻訳は、翻訳される作品を甦(よみがえ)らせ、翻訳する言語を創るのだ。そのような翻訳の創造力の源にあるのが、他言語で語られた言葉の異質さの肯定である。ただし肯定の身ぶりは、破壊的なまでに批評的でもある。原作が文字として残されている姿に細やかに寄り添う翻訳は、一個の「古典」でもあるような原作の像を解体し、従来の作品像が抑圧してきた作品の潜在力を、別の言語のうちに解き放つこともある。それとともに、翻訳する言語は根底から揺さぶられることになる。

作家の多和田葉子は、カフカ(Franz Kafka, 1883–1924)の『変身』の冒頭の一文を次のように訳している。

グレゴール・ザムザがある朝のこと、複数の夢の反乱の果てに目を醒(さ)ますと、寝台の中で自分がばけもののようなウンゲツィーファー(生け贄にできないほど汚(けが)れた動物或いは虫)に姿を変えてしまっていることに気がついた。

多和田の翻訳は、従来の訳文が均(なら)してきた原文の細部を浮き彫りにし、ドイツ語のUngezieferという語を凝視することによって作品像を一新しながら、そこに描かれる人間の運命を同時代性において想起させる。今や誰もが、ある日突然、イタリアの哲学者アガンベン(Giorgio Agamben, 1940–)が論じる「ホモ・サケル」──罪の烙印を押され、殺しても罪に問われないとされた者──とも重なる「ウンゲツィーファー」と化し、小説の主人公と同様に棄てられる可能性がある

日本語の流れをあえて遮断しながら、一つひとつの言葉の前に立ち止まらせる訳文は、現代社会における生の脆(もろ)さとともに、生き物のそれとして剝(む)き出しにされた身体に注がれる眼差しの暴力を伝えている。こうして、翻訳されることによって作品がその潜在力を今ここに発揮し始めるとき、訳者の多和田葉子を含めた作家にとっては、創作の土壌がいっそう豊かになっているにちがいない。そして、翻訳によって耕された言葉の沃土のなかから新たな作品が生まれてくる過程は、文学の可能性を拡げ、文化を創造する。文化は、翻訳という他者の経験によって形づくられるのだ。

ドイツの哲学者ハーマッハー(Werner Hamacher, 1948–2017)は、自足的な文化は存在しないことを指摘したうえで、どの文化も、他の文化との接触をつうじて文化として錬成(れんせい)されると述べている。文化は「複数形でのみ存在する」のだ。そして、その雑種的な存在を支えるのが翻訳である。しかし、ある文化が自分たちに固有のものとして、単数形で語られ始めると、それは他者を呑み込みながら自己を拡張していく。こうしてその文化は、固有名を持った単一性ないし純粋性において自己を主張し、それとともに、文化の担い手としての同一性を具えた「民族」を作るのである。

言語に刻まれた喪失

この過程を貫くのが、他者の言語を、さらにはそれにもとづく文化を、ある仮構された自己とその言語に同化させる翻訳にほかならない。それは他言語で書かれたものを、その異質さの跡形も残らないように自己の言語に吸収し、あたかもその言語で書かれていたかのように読ませる。翻訳論にも重要な足跡を残したフランスの翻訳家ベルマン(Antoine Berman, 1942–91)は、そのような翻訳を「自民族中心主義的翻訳」と呼び、これがローマとそのラテン語の文化を形成したと指摘している。それはとくにギリシア語の書物を貪欲に摂取しながら、一つの帝国を造り上げるに至った。

しかしながら、フランスの哲学者カッサン(Barbara Cassin, 1947–)によると、ローマの起源にあるのは一つの断絶である。それを物語るヴェルギリウスの叙事詩『アエネイス』が伝えるのは、滅亡したトロイアから逃れたアエネアスの母語からの訣別(けつべつ)なのだ。ローマの礎には故郷喪失が刻まれているのであり、それを築いた人々は、異郷で言語喪失のなかからラテン語の文化を創らなければならなかった。この文化が後に、他者の文化を吸収しながら故郷を遍在させるようになるとはいえ、カッサンによれば、その起源の物語は、言語そのものに刻まれた喪失の寓話(ぐうわ)として見直される必要がある。

アエネアスの物語は、人が絶えず翻訳をつうじてみずからの言語とその文化を形づくらなければならないことを暗示している。そして、翻訳を衝き動かしているのは、人が固有の言語を持ちえないという事実なのである。これを哲学者デリダ(Jacques Derrida, 1930–2004)は、「私の『固有の』言語は、私にとって同化不可能な言語である」と言い表わす。フランスの植民地だったアルジェリアにユダヤ人として生まれ、長じてフランスに活動の場を得た彼はさらに、「私の言語、みずからが話すのを私が聞いており、話すのが得意なたった一つの言語、それは他者の言語なのである」とも述べている。

「私の言語」は「他者の言語」だというデリダの言葉はたしかに、フランス語を「母語」としていたにもかかわらず、第二次世界大戦中のユダヤ人迫害によってフランス語で学ぶ機会を奪われた自身の経験を背景に語られている。しかし、固有の言語を持ちえないことは、彼のように、自分が話す言語が他者のものであることを突きつけられた者だけに当てはまるわけではない。一般に自然な所与と見なされる「母語」が、実際には「母」を含めた他者の言語であることは、自分が用いる語彙のすべてが、外から吹き込まれた他者の言葉であること一つを顧みても明らかだろう。

さらに、「母語」として想定される一個の「言語」なるものも、デリダも指摘するように、近代の政治的な虚構にすぎない。その習得を強いられることが、「私の言語」を持つことに付きまとうとすれば、発語そのものに、虚構としての「他者の言語」への疎外も刻まれていることになる。デリダによれば、人はこのような幾重もの「失語」のなかから言葉を発するのであり、発語はそれ自体翻訳である。その翻訳は、たしかに一つの「特有言語」でもあるような「私の言語」を志向するものではあるが、出発点も到達点も見定めることのできない「絶対的翻訳」であるという。

翻訳の倫理へ

人は「絶対的翻訳」のなかに投げ出されている。そして、翻訳とは他者の言葉に応じる営みであるとすれば、この「絶対的翻訳」を経験するとはどういうことだろうか。その経験を、アーレントが語った人間の複数性を生きる可能性へ向けてどのように考えることができるだろうか。翻訳についてこうした問いを立てるとすれば、それはベルマンが「自民族中心主義」に抗して構想した「翻訳の倫理」へも向けられることになろう。ここで倫理とは、他者を、他者であるままに受け容れる生き方、ひいてはそれにもとづいて他者とともに生きる関係を築く営為の道筋のことである。

これを生涯にわたって追求した哲学者レヴィナス(Émmanuel Lévinas, 1906–95)の思考を踏まえながら、ベルマンは、翻訳の倫理を探っている。レヴィナスは、他者がまさに他者として姿を現わすのに正面から向き合わされる瞬間に、他者の存在を肯定するところに倫理の可能性を見ていた。ベルマンもまた、他者の言葉を真正面から受け止めるところに、他者を、そしてその言葉を異質さにおいて肯定する倫理の可能性を見て取る。そのような他者の言葉に対する態度とは、「〈異なるもの〉をその肉体という意味での身体性において迎え入れようとする」ものであるという。

他者の言葉の理解可能な意味だけを伝達し、それを自己の「精神」に解消する「自民族中心主義的翻訳」──意訳が行き着くのはここだ──は、他者の独自の存在を否定しながら、ある自己に「固有の」文化をその覇権とともに築いてきたが、それは言語を窒息させつつある。これに対して、他者の言葉をその「肉体」もろとも受け止める翻訳は、他者の存在を肯定し、それを言葉のうちに迎え入れようとする。これを可能にするのが、自分は「固有の」言語を持つことができず、それゆえ「絶対的翻訳」のなかへ投げ入れられていることの認識である。

言葉をその肉体まで受け止めて翻訳するとは、話し言葉であれば、音声的な抑揚や言葉の運びに注意を払い、沈黙にも耳を澄ますことであろう。ただしベルマンが「翻訳の倫理」を語るのは、基本的には詩的作品の翻訳の次元においてである。そこで言葉の肉体を顕わすのは「文字」であるという。文字の姿を受け止め、それを形づくる言葉の連なりに細心の注意を払うような他者の言葉への「忠実」こそ倫理なのだ。だとすれば、その倫理は、ベンヤミンとローゼンツヴァイクの翻訳論が重視した翻訳の「逐語性」が目指すところとも重なる。

ベルマンは、中世フランスの吟遊詩人の言葉を借りて、倫理的な翻訳は言語のうちに「彼方より来たるものを迎え入れる宿」を造ると述べている。ベンヤミンも論じていたように、翻訳の「忠実な」実践によって、歓待性であり、創造性でもあるような肯定性が言語に取り戻されるのだ。他言語で語られた言葉の異質さを受け止めながら翻訳を生きる。この他者の経験を、発語そのものの経験にしていくなら、他者を受け容れる余地が、そして他者と息を通わせる回路が、言語のなかに開かれるだろう。それとともに他者に応答しうる自分が、新生とともに見いだされるはずだ。

その可能性を追求するのが、一つの倫理学を含んだ翻訳の理論の課題である。その理論を形づくるものの一つを翻訳の哲学と見るなら、それは言葉を発すること自体を、翻訳の経験として見つめ直す。それによって、「母語」の自明性を突き崩しながら、言語を他者に開くのだ。こうして言語そのものを、さまざまな背景を持つ他者たちが言葉を交わす可能性へ向けて問う哲学は、極度に情報化された言葉が、現在の社会においてマイノリティにされた者を傷つけながら対話の回路を塞いでいる今、生存の危機を他者とともに生き延びるために必要とされていると考えられる。

参考文献

■ジョルジョ・アガンベン『ホモ・サケル──主権権力と剝き出しの生』高桑和巳訳、以文社、2003年。

■アントワーヌ・ベルマン『翻訳の倫理学──彼方のものを迎える文字』藤田省一訳、晃洋書房、2014年。

■バルバラ・カッサン『ノスタルジー──我が家にいるとはどういうことか? オデュッセウス、アエネアス、アーレント』馬場智一訳、花伝社、2020年。

■ジャック・デリダ『たった一つの、私のものではない言葉──他者の単一言語使用』守中高明訳、岩波書店、2001年。

■ヴェルナー・ハーマッハー『他自律──多文化主義批判のために』増田靖彦訳、月曜社、2007年。

■多和田葉子編『ポケットマスターピース01カフカ』集英社、2015年。

■エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』藤岡俊博訳、講談社、2020年。

柿木伸之

柿木伸之(かきぎのぶゆき)西南学院大学国際文化学部教授。研究の専門は哲学と美学。著書に『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』(岩波新書、2019年)、『断絶からの歴史──ベンヤミンの歴史哲学』(月曜社、2021年)、『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』(平凡社、2014年)などがある。
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