英語は、文学、映画やドラマ、コメディーや歌などに楽しく触れながら学ぶと、習得しやすくなります。連載「文学&カルチャー英語」では、シェイクスピア研究者で大学准教授、自称「不真面目な批評家」の北村紗衣さんが、英語の日常表現や奥深さを紹介します。今回のテーマは、2019年に英語辞書『メリアム・ウェブスター』で「今年の単語」に選ばれ、日本でも話題になったtheyと、theyのように単数でも使われるweです。
皆さん、こんにちは。
12月末に公開した シェイクスピア英語の記事 でこの連載は終了する予定だったのですが、うれしいことに読者の方々からの反応が良かったため、おまけとして3回、「単語編」として連載を続けることになりました。
代名詞theyとweの単数としての用法
今回は、見慣れないかもしれませんが、知らないと誤読してしまう可能性が高い代名詞の用法の話をしたいと思います。
扱う代名詞は、theyとweです。2つとも複数形としてしか使えないと思っていませんか?実は、そういうわけではないのです。
歌手サム・スミスのカミングアウト
歌手のサム・スミス(Sam Smith)をご存じでしょうか?感情表現が豊かな美声で有名な、イギリスのシンガーソングライターです。失恋などを扱ったちょっと憂鬱(ゆううつ)な曲が得意で、“I’m Not the Only One”や“How Do You Sleep?”などのヒット曲があります(聞き取りやすい英語で歌うので、聞いたことがない方にはおすすめします)。
スミスは2014年にゲイだとカムアウトしています。その後は インタビュー などで、自分のジェンダーアイデンティティーが完全に男とは言い切れないことも公言しました。2019年9月13日に、スミスは インスタグラム で自らが「ノンバイナリー」であることを公表し、自分のことを指すときの代名詞には“they/them”を使ってほしいと宣言しました。
「ノンバイナリー」は二元論でない捉え方
まずは ノンバイナリー(nonbinary) という言葉が分からない方も多いと思います。
binaryは「2つの項目から成っている」などという意味です。ここでは、ジェンダーが男か女かという二元的な考えで判断されることを指します。
それに否定語のnonが付いているので、人についてnonbinaryという言葉を使う場合、ジェンダーを 男女という二元で考える規則には当てはまらない ことを指します。完全に男だと言えるわけでもないし、完全に女だと言えるわけでもないということです。
ノンバイナリーの人にもいろいろいます。男女どちらか片方には自分を当てはめられないとか、そもそもジェンダーがないと自認しているとか、性別二元論を採用していない文化圏の出身で、男でも女でもないジェンダーを有しているとか(アメリカの先住民や南太平洋地域などには、ジェンダーが2つではない文化もあります)、さまざまです。
ノンバイナリーは トランスジェンダー と混同されやすいのですが、この2つは違う意味を持つ言葉です。トランスジェンダーの人には男女どちらか片方のジェンダーの自認があることが多いのですが、ノンバイナリーの人はそうではありません。トランスジェンダーでノンバイナリーの人もいますが、そうでない人もたくさんいます。
ノンバイナリーの人に単数のtheyを使うことがある
既述のように、スミスはインスタグラムで、ノンバイナリーとしての自分を指す英語の代名詞を示しました。
英語の困ったところは、三人称単数の代名詞が完全に男女二元論であることです。男を指すheと女を指すsheしか存在しません。
このため、ノンバイナリーの人には、自分 一人のことを指すときでも三人称はthey を使ってもらう文化があります。スミスが自分についてtheyやthemを使ってほしいと発言したのは、こうした習慣に沿ったものです。
この場合も通常、 動詞の活用は三人称複数のtheyに合わせる ので、be動詞を続ける際は、they are ...やthey were ...となります。
さて、では正しくtheyを使ってスミスのキャリアを書き表すと、どうなるでしょうか? 英語版ウィキペディア の 2019年12月21日時点 の記述を見てみましょう(太字は筆者)。
At the 2015 Billboard Music Awards, Smith received three Billboard Awards: Top Male Artist, Top New Artist, and Top Radio Songs Artist. Their musical achievements have also led them to be mentioned twice in the Guinness World Records.
太字部分がtheyの系列の代名詞が使われているところです。ウィキペディアの記事では、最初に代名詞が出てくるところで注釈があり、スミスがノンバイナリーだと説明されています。
しかし、theyは複数形だとたたき込まれている学習者にとっては、読み進めているうちに、theyが指すのが単数の人であることをうっかり忘れてしまうかもしれないので、注意が必要です。
単数のtheyは日本語にどう訳す?
上記の英文のTheirやthemはスミスを指していることが分かりますね。では、どうやって訳せばいいのでしょうか?私が作った下記の訳例を見てください。
2015年のビルボード・ミュージック・アワードでは、スミスはトップ男性アーティスト賞、トップ新人アーティスト賞、トップ・ラジオ・ソング・アーティスト賞の3部門で受賞を果たした。音楽分野における業績ゆえ、2度にわたりギネス世界記録に輝くことにもなった。
あれっと思った方もいるかもしれませんが、代名詞に当たるものが日本語の訳例には一切ありません。
これは単数のthey、their、themに限らず、heだろうがsheだろうがitだろうが、英語の全ての代名詞に言えることですが、 文脈で誰(何)だか分かる場合、代名詞は日本語に訳出しない 、ということで構わないのです。
日本語は通常、「彼は」とか「彼女の」とか「彼らを」などの言葉で、ある行動をした人や何かを持っている人などを指すことはしません。むしろこういう言葉を使って訳すと、不自然になります。
日本語の日常会話では、そもそも恋人以外の人を「彼」「彼女」と呼ぶことは少ない思います。ほとんどの場合は、文脈で分かるようにするか、混同しそうな場合は「スミスは」などのように 名前を使う のが分かりやすいでしょう。
日本語にはノンバイナリーの人が使う代名詞というのはありませんが、日本語の文法がそうした言葉を必要とすることはほぼないと思われます。
英語を日本語に訳すときに重要なのは、代名詞が誰を指しているかを理解し、 わざわざ代名詞っぽい言葉を使わなくても文脈で分かるようにする ことです。
昔からある、単数のtheyの用法とは?
実は、文脈は違いますが、単数のtheyというのは昔から英語に存在しています。
「everyoneなどは単数なので、heで受けるのが普通であり、ジェンダーニュートラルな言い方ではhe or sheを使う」と学校で習った人は多いと思います。しかし、実はこのときtheyも使われます。
このように、everyoneなど文法的には単数形の人やものを、本来複数形であるはずのtheyで受けてしまう、というのは、中世から存在する用法です。
英語の辞書として最も権威があり、古い用例採集に力を入れている『オックスフォード英語辞典(Oxford English Dictionary)』では、ある言葉がいつごろから使われているのかを調べることができます。これ *1によると、このtheyの用法は14世紀ごろからあるそうです。18世紀の偉大な小説家ヘンリー・フィールディング(Henry Fielding)も使っています。
ノンバイナリーの人を指すtheyは、こうした用例の拡張と言えます。なお、ノンバイナリーの人を指すtheyは、すでにオックスフォード英語辞典に載っていて、初出用例は2009年です。
王や女王の一人称代名詞である単数のwe
もう一つ、歴史的に重要で、知らないと混乱してしまいそうなのが、いわゆる “royal we” 、日本語では「尊厳の複数」などと呼ばれているものです。
一人称代名詞の複数形であるwe *2は「私たち」「われわれ」という意味ですが、これも場合によっては単数で使われます。
王や女王などの君主は国家という集合体の代表として発言する際、自分のことを(一人だけなのに)weと呼ぶことがあるのです。
これは特殊な話し方なので、例外的に、訳出した方がいいこともある代名詞です。日本語であれば、おそらく「朕」とか「余」のような訳語を当てるといいでしょう。
ヴィクトリア女王の陰気で厳しい性格を象徴する発言としてよく引用される“We are not amused.”(朕は面白いと思わぬ)のWeは“royal we”です。ただし、この発言が本当にヴィクトリア女王の言葉かどうかは 疑わしい そうですが・・・。
このように、通常は複数で使う代名詞が単数で使われる場合というのは、意外とあります。どのような状況で使われるのかを把握し、注意して英語を理解するようにしてください。
理屈は分かっていても、実際に読んだり聞いたりするときには気付きにくいこともあるので、注意しましょう。
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編集:ENGLISH JOURNAL編集部/トップ写真:山本高裕(ENGLISH JOURNAL編集部)
*2 :“we, pron., n., and adj.” OED Online, Oxford University Press, December 2019, https://www.oed.com/view/Entry/226539 . Accessed 20 December 2019.
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