翻訳家の柴田元幸さんが、毎回一人、英米現代・古典の重要作家を選び、その小説の翻訳術を紹介します。まずは作家の特徴がよくわかる文章と、柴田翻訳の妙技をご堪能ください。
紹介する作家:アーネスト・ヘミングウェイ
1899 年アメリカ、イリノイ州生まれ。新聞記者としてキャリアをスタートさせる。代表作に『武器よさらば』、『誰がために鐘は鳴る』など。1954 年、『老人と海』が評価されノーベル文学賞受賞。1961 年没。
Well -Lighted Place 』(1933)">『A Clean, Well -Lighted Place 』(1933)
昼間は街も埃っぽかったが、日が暮れてからは夜露で埃も収まった。老人は遅くまで店にいるのが好きだった。彼は耳が聞こえず、夜になると静かで、その違いがわかったからだ。
カフェの店内にいる二人のウェイターは、老人が少し酔っていて、いい客ではあるけれどあまり酔いすぎると金を払わずに帰ってしまうことを知っていたから、彼から目を離さなかった。
「あの爺さん、先週自殺未遂やったんだ」と一方のウェイターが言った。
「なぜ?」
「絶望したのさ」
「何に?」
「べつに、なんにも」
「どうしてわかるんだ、べつになんにもって?」
「金をたっぷり持ってるからさ」
(「清潔な、明かりの心地よい場所」)
といっても、むろんヘミングウェイは、readerfriendlyであろうとしたとか、いわゆる「サクサク読める」読みやすさを目指したりしたわけではない。文学史的に考えるなら、まず前回取り上げたマーク・トウェインが19 世紀後半、イギリス英語的な美文調を排して、そこらへんのアメリカ人が普通に使っている口語を用いて小説を書いた(その最大の成果が、浮浪者の少年がすべて自分の言葉で綴ったAdventures ofHuckleberry Finn)。ヘミングウェイはそれを継承しつつ、トウェインほど口語を優位には置かなかったが、美文調を排する点ではいっそう徹底していて、小説の文章から抽象的な言葉や表現を取り除き、ごく簡単な言葉で緊張感ある文章を作り上げた。
ラテン語、フランス語語源の言葉を極力使わず、英語にもともとあったシンプルな言葉を使う。たとえばpossess ではなくhave を、 acquire ではなくget を使うといった具合に。何となく「文学的」と思われているものを排した文章こそ真に文学的でありうる、という信念の下にヘミングウェイの文章は書かれている。だからほとんどの単語は一音節であり、二音節以上あっても、左に挙げたとおりevery, cafe, except ,shadow ... といった簡単な語ばかりである。
このような文章を訳すときは、いろんなところですでに言っていることだが、なるべく漢語を避けて和語を使いたい。英語におけるラテン語、フランス語起源の「外来語」は日本語における漢語に、アングロ=サクソン語起源の「土着語」は和語に、それぞれ大まかに(あくまでに大まかに、だが)対応すると思うので。
一見シンプルな文章を、ヘミングウェイは細心の注意を払って書いた。左の引用でも、“because he wasdeaf and now at night it was quiet and he felt the difference ” という一見矛盾(耳の聞こえない人間が夜の静けさを愛する、という)をはらんだ内容の一文など本当に見事だと思う。
また、最後まで読むと、nothing という言葉に「無」「虚無」という意味が加わって、ここでの“in despairabout nothing”(べつに、なんにも絶望していない)というフレーズにも違う意味(無に、虚無に絶望して)が加わるといったあたりも油断できない。
個人的に興味深いのは、こういうシンプルな単語をどんどんつなげていって、ちょっと無理があるんじゃないかというところまでセンテンスを持っていくときだ。
Feast 』(1964)">『A Movable Feast 』(1964)
(A Movable Feast , 1964)
(『移動祝祭日』)
柴田元幸さんの本
1954(昭和29)年、東京生まれ。米文学者、東京大学名誉教授、翻訳家。ポール・オースター、スティーヴン・ミルハウザー、レベッカ・ブラウン、ブライアン・エヴンソンなどアメリカ現代作家を精力的に翻訳。2005 年にはアメリカ文学の論文集『アメリカン・ナルシス』(東京大学出版会)でサントリー学芸賞を、2010年には翻訳『メイスン&ディクスン(上)(下)』(トマス・ピンチョン著、新潮社)で日本翻訳文化賞を、また2017年には早稲田大学坪内逍遙大賞を受賞。文芸誌「MONKEY」(スイッチ・パブリッシング)の責任編集も務める。
出典:Ernest Hemingway, “A Clean, Well -Lighted Place ,” The CompleteShort Stories of Ernest Hemingway: The Finca Vigia Edition(Scribner); The Snows of Kilimanjaro and Other Stories (Scribner) など―, A Movable Feast (Scribner 他)
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