
翻訳家の柴田元幸さんが、毎回一人、英米現代・古典の重要作家を選び、その小説の翻訳術を紹介します。まずは作家の特徴がよくわかる文章と、柴田翻訳の妙技をご堪能ください。
紹介する作家:ジョゼフ・コンラッド
1857 年、ベルディチェフ(現ウクライナ)生まれ。16 歳で船乗りになり、イギリス船の上で英語を学ぶ。1899 年に発表した『闇の奥』が後世の文学に与えた 影響 は大きい。ほかの代表作に『ロード・ジム』などがある。1924 年没。
『Heart of Darkness』(1902)
(Heart of Darkness, 1902, Ch. 1)
(『闇の奥』第1 章)
『Lord Jim』(1900)
(Lord Jim, 1900, Ch. 14)
(『ロード・ジム』第14 章)
なかなか人によって見え方の違う書き手であるが、僕にとってのコンラッドは、まずは「笑える作家」である。
最初に引用したのは、『闇の奥』で親戚のコネに頼って船長職を得たマーロウが、ロンドンでその 手続き に行く場面。コンラッドの世界では、ある状況や環境があって、それに相応しい人間がそこにしっくり収まっているということはまずない。
どこへ行っても、誰もが場違いであり、真面目であってもよさそうな場面でもつねにどこか茶番めいている。そのことが、コンラッドを「笑える作家」にしている。
とはいってもそれは、真面目さ、深刻さを軽減するための滑稽さではない。むしろそれは、あまりに真剣に世界を見ることによって、世界が意味をなしていないことを逆に発見してしまった人間が 提示する 、アイロニーに満ちた滑稽さである。
勇気とは、英雄であるとは、といった大時代的な問いをコンラッドはしばしば立てるが、それがまさに大時代的であって今日(コンラッドの生きた今日であれ、我々が生きる今日であれ)まったく意味をなさない かもしれない という意識もそこにはつねにある。
これに誰よりも似ているのは、頽廃したロサンゼルスできわめて個人的な倫理を貫きとおす私立探偵を描きつづけたレイモンド・チャンドラーだろう( ちなみに 『闇の奥』『ロード・ジム』の大半を語るコンラッドの最重要語り手の名がMarlowであり、チャンドラーの私立探偵がPhilip Marloweであることにいかなる現実的因果があるかは不明だが、彼らが文学的兄弟であることは間違いない)。
たとえば『ロード・ジム』においても、ジムにとっては自分がたった一度だけ犯した かもしれない 臆病な行為の意味を決定するきわめて重要な裁判も、二番目の引用のごときなんとも「テキトー」な裁判官によってあっさり片づけられてしまう。
といってもコンラッドは、こういうテキトーさに憤っているのではない。憤るとすれば、世界に正義があるとナイーブに信じている人間ということになる。逆に、世界なんてしょせんこの程度さ、とシニカルに達観しているのでもない。
そのようなシニカルさはコンラッドを、勇気も英雄性も絵に描いた餅でしかないと決めている人間にしてしまう。彼はそのどちらでもない(あるいはどちらでもある)。この両者のあいだを揺れつづけることが、コンラッドをコンラッドにしている。
というわけで、あまり翻訳の話ができなかったが、これまで「笑えるコンラッド」という側面はあまり顧みられてこなかったと思うので、まずはこの点を訳においても再現することの重要性を強調しておきたい。何しろややこしい構文であることも多いので、これまた往々にしてEasier said than done(言うは易し行なうは難し)なのですが……
柴田元幸さんの本
1954(昭和29)年、東京生まれ。米文学者、東京大学名誉教授、翻訳家。ポール・オースター、スティーヴン・ミルハウザー、レベッカ・ブラウン、ブライアン・エヴンソンなどアメリカ現代作家を精力的に翻訳。2005 年にはアメリカ文学の論文集『アメリカン・ナルシス』(東京大学出版会)でサントリー学芸賞を、2010年には翻訳『メイスン&ディクスン(上)(下)』(トマス・ピンチョン著、新潮社)で日本翻訳文化賞を、また2017年には早稲田大学坪内逍遙大賞を受賞。文芸誌「MONKEY」(スイッチ・パブリッシング)の責任編集も務める。
出典:Joseph Conrad, Heart of Darkness(Penguin Classics 等)――, Lord Jim(Penguin Classics 等)
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