茂木健一郎さんが語る、デジタル時代の「バカの壁」

デジタルネイティブの子どもたちが成長してきた今の時代、かつてのコミュニケーションの手法は通用しなくなったと、茂木健一郎さんは語ります。この時代に合ったコミュニケーションのスタイルとは、どんなものなのでしょうか。

社会現象にまでなった『バカの壁』

2003年、前々から尊敬申し上げていた養老孟司先生が書いた『バカの壁』という本が大ベストセラーになったときは、ほんとうに驚いた。

もちろん、その前から養老先生の本は素晴らしいと思っていたけれども、まさか、あれほど売れて社会現象になるとは予想していなかったのである。

それだけ、人の琴線に触れたということだろう。その後も売れ続け、累計の発行部数は、400万部を超えているという。

『バカの壁』は、人と人とがわかりあうことの難しさを養老先生らしい語り口で説いた本である。あれだけ売れたということは、皆、思い当たるところがあったのだろう。

「話せばわかる」と言えない時代の到来

もともと、日本人は、お互いを似たようなものだという前提からコミュニケーションを始める傾向がある。

「話せばわかる」「腹を割って話す」「胸襟を開いて話す」「無礼講」といった言葉は、きちんと話せば心と心は通じ合うという私たちの美しい信仰を表している。

ところが、時代が流れて、話せばわかるとも言えなくなってきた。養老先生の言葉を借りれば、コミュニケーションの「バカの壁」が至るところに出てきてしまっているのである。

「デジタルネイティブ」という呼び名があるように、最近の子どもたちは仮想世界をさまざまに「掘り下げて」いる。

「ユーチューバー」や「歌い手」「ボカロP」「絵師」といったネット用語の意味がわからない大人と、そのような空気をふだんから吸っている子どもたちの間に、コミュニケーションの壁が生じている。

世代間ギャップより深刻な「壁」

子どもがスマホばかりいじっているというお母さんの嘆きをよく聞く。イメージとしては、スマホをいじる時間はさぼっているように感じるのだろう。

しかし、実際には子どもがスマホで何をやっているのかはわからない。

ユーチューブで動画を見たり、ネットニュースをチェックしたり、友だちとSNSでつながったり、あるいは曲作りやお絵かき、プログラミングをしている可能性もある。

親としては、どうせゲームでもやっているのだろうと思う。しかし、子どもはもっといろいろなことをやっている。ここにあるコミュニケーションの壁は、かつての「世代間ギャップ」以上に深刻だ。

話せば話すほど対立が深まる

政治では、リベラルと保守の間で言葉が通じない。日本だけではない。世界的な傾向だ。

リベラルと保守の立場の人たちが、お互いに相手を揶揄(やゆ)する呼び名は、世界各国に存在する。話せばわかるどころの話ではない。話せば話すほど、SNS上でやりとりをすればするほど、ますます対立が深まる傾向がある。

AI(人工知能)のような新しい技術を理解し、推進する側と、それらに翻弄(ほんろう)されて不安に感じる人たちの間でも、なかなか話が通じない。

政府や大学といった既成の権威を重視する人たちと、そのようなものに頼らない破壊的イノベーションを志向する人たちの間でも、意見のやりとりがなかなかできない。

トロールに餌を与えるな

このように見ると、現代の社会は、至るところにコミュニケーションの壁、「バカの壁」があるように見える。

そして、どんなに意を尽くしても、心を開いても、その壁を乗り越えることは難しいようにも見える。

だとすれば、私たちはどのように生きていけばよいのだろうか。

言葉をどれだけ尽くしても、コミュニケーションが成立しないというのは悲しい現実認識である。

X(旧Twitter)やFacebookなどのSNSで、他人を揶揄したり罵倒したりして場を荒らしていく人たちを、英語圏では「トロール」という。どんなに言葉をかわしても結局問題が解決せず、トロールたちが喜ぶだけだという経験則から、「トロールに餌を与えるな」(Don’t feed the trolls.)という標語があるほどだ。

相互理解は不可能という前提から出発する

では、意見が違う人、価値観が一致しない人は、無視し続けるしかないのか。コミュニケーションの壁は乗り越えることができないのか。

ここに、現代の生き方を考える上での、最も大切な課題があるように思う。

振り返れば、私たちは、お互いに心を開けば話が通じるはずだと思いすぎていたのかもしれない。壁を乗り越えられるという「期待値」が高いほど、そうでない時に失望してしまう。人間不信に陥ってしまう。

その反動として、他人に対して攻撃的になったり、皮肉屋になってしまったりする。

いっそのこと、そもそも世界は分裂してしまっていて、相互理解は不可能なのだ、という前提から出発したらどうだろう?

メジャーなものも、権威もない。ただ、世界は細胞のように壁に囲まれて、小さな部分社会があるだけである。

そのような絶望的認識に立ち返った時、それでも「パンドラの箱」の中に残る「希望」があるとすれば、そのかすかな希望から、もう一度コミュニケーションを立ち上げるしかないと思う。

「壁」があるからこそ

私自身、しばしばSNS上で「炎上」を経験してきた。いったん炎上すると、相互理解はもう難しい。

しかし、コミュニケーションはもともと難しいのだ、至るところ壁ばかりなのだと思うと、かえって気楽になるように思う。

そんな絶望からスタートすると、それでも奇跡的に心が通じ合ったときの喜びも大きくなる。

人と人とが心を通じ合うという「奇跡」が、まるで地上に降り立った太陽の神様のように輝いて感じられるのだ。

「壁」があるからこそ、「壁」を乗り越える喜びもある。そう思うと、「壁」があるのもそんなに悪くはないと思えてくる。

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茂木健一郎さんの著書

茂木健一郎
茂木健一郎

1962年東京生まれ。脳科学者、作家。ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。東京大学大学院物理学専攻課程を修了、理学博士。「クオリア」(感覚の持つ質感)をキーワードとして脳と心の関係を研究するとともに文芸評論、美術評論にも取り組んでいる。

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