小説の「信頼できない語り手」とは?カズオ・イシグロの『日の名残り』【英語文学】

翻訳者のエリザベト怜美さんが、多様な作家による作品を通して、文学をリアルに感じる読み方をお届けする連載「イギリス育ち翻訳者の英語文学へのいざない」。第1回は、映画化もされたカズオ・イシグロの小説『日の名残り』です。英国執事による一人称の語りからどんな風景や記憶が見えてくるのでしょうか?

物語を導く「信頼できない語り手」

しばらくのどかな陽気が続き、無性に日本映画が観たくなっていた。が、結局のところ、選んだのはカズオ・イシグロの小説だった。イシグロ自身が好きな映画監督に小津安二郎を挙げているように、彼の作品は、たとえ舞台がイギリスでもどこか日本を思わせる穏やかさと静けさがある。

今回取り上げる『日の名残り』(原題:The Remains of the Day)は、第2次世界大戦後のイギリスで屋敷に勤める老執事の回想の物語。悲しくも優しい、コメディーストーリーだ(と、私は思う)。

主人公のスティーブンスは、生真面目でおっちょこちょい。時折、新しい雇い主であるアメリカ人を会話で楽しませるため、こっそりとジョークの練習をする場面もある。彼が一人称視点で、大昔の思い出と直近の出来事とをない交ぜにして、記憶のみを語ることで物語は進んでいく。

その言葉のうちで、スティーブンス自身の「こうであってほしい」という願望や、「こうでなくてはならない」という道徳的価値観に従い、不都合な事実は隠され、忘れられている。

「信頼できない語り手(unreliable narrator)」とは文学研究の用語で、一人称視点で物語を 展開する ときの技法の一種だ。推理小説などで、証言者がわざとうそをつくことなどもこれに当たる。

ただし 、スティーブンスの場合は、意図的にうそを語っているのではなく、無意識ながらに事実をゆがめていく。現在の自分が真実だと思う記憶へと、他人の行為や出来事のみでなく、その当時の自分自身の行動や考えの断片までもが 加工 されていき、統合されていく。それは人間の「想起」というプロセスそのものだと言える。

善しあしではなく、私たちの持つ主観の働き、私たちの生きる人生、私たちの現実の理解とは必然的にそういうものだ。実際、スティーブンスは何かしらのサスペンスの犯人ではない。ただ、思索のうねりをゆっくりと迂回(うかい)させながら、休暇に出掛けた6日間について話しているだけの、ごく普通の老紳士だ。

「品格」という人生のルール

ところで、スティーブンスは、至るところである癖を見せる。それは、執事としての「品格( dignity )」に自分のありとあらゆる経験を 回収 させていく思考回路のことにほかならない。自分自身のあらゆる行い、感じ方、意見は、偉大な執事としてふさわしい かどうか 、という観点からじっくりと検閲され、その期待に応えるように編集されていく。若かりし日々のおぼろげな記憶はもちろんのこと、つい今朝方の出来事も、例外ではない。

It was a fine feeling indeed to be standing up there like that, with the sound of summer all around one and a light breeze on one’s face.

(The Remains of the Day, Kazuo Ishiguro)

 

夏のざわめきに包まれた丘の上で、顔にそよ風を受けながら立ちつくすのは、なんと気分のよいことでしたろう。

(カズオ・イシグロ『日の名残り』土屋政雄

この場面では、 久しぶり の休暇でドライブに出発した朝、道すがらしばし車を止め、高台へ登り、そこに現れた田園風景に心動かされる。晴れやかな気持ちになったところで、それまでの屋敷を離れるという不安に代わって、これからの旅の行く末に 希望 を抱くことになる。

ところが、その日の夜に宿で再びその景色を回想するときには、まったく異なる描写が登場する。

For it is true, when I stood on that high ledge this morning and viewed the land before me, I distinctly felt that rare, yet unmistakable feeling ? the feeling that one is in the presence of greatness.

(The Remains of the Day, Kazuo Ishiguro)

 

今朝、あの丘に立ち、眼下にあの大地を見たとき、私ははっきりと偉大さの中にいることを感じました。じつにまれながら、まがいようのない感覚でした。

(カズオ・イシグロ『日の名残り』土屋政雄訳)

この文章をよく見ると、“ for it is true”(確かに~であるからして)、“ distinctly ”(はっきりと)、“ unmistakable ”(まがいようのない)といった、不自然なほどに真実味を強調するような表現が頻出する。

続けて語り手は、今朝のなだらかに広がる大地はイギリス(Great Britain)という国の慎ましやかな「偉大さ(greatness)」の現れであり、ひいては「偉大な執事とは何か?」の答えである「品格」に深い関わりがある、という論を 展開する

このように、自分の胸を打ったのは執事として追い求めるべき「品格」が体現されていた風景だ、と 主張する かのように描写に変化が起こる。常に偉大な執事を目指す者として適切な経験が、彼の中につくられていくのだ。

実際はもしかすると、久方ぶりに屋敷の外へ出て、職務から解放され、のびのびとした気分を丘の上で味わっていたのではないだろうか。先ほどまで、慣れ親しんだ土地から遠く離れていくことや、これから先の旅路に不安を覚えていたことを思えば、広々とした景色を眺めて、ただ「立ちつくす」ことの幸福を感じていたとしても不思議ではない。しかし、彼は「執事」を離れた自分を容易に認めることはしない。

スティーブンスの回想する日々には、読み手からすると、思わず口を挟んでしまいたくなるようなところがたくさんある。まるでホラー映画を見るときのように、そっちじゃない、そうじゃない、と言いたくなる場面が多々ある。

ただ、彼の選択を安易になじるような気持ちにもならないのは、彼にとっては彼の想起する人生こそが真実であり、かけがえのないものだからだ。一人の人間が、自分自身の生き方にとらわれながらも、そのときそのときを懸命に生きていた、という実直さが物語を通して伝わってくる。

カズオ・イシグロは、人生への慈しみがあふれている作家だと思う。

人生のたそがれ

夕暮れ時の桟橋のシーンでは、かつてスティーブンスと同業者だったという、海辺の町の老人が隣に座ってくる。ごくごく素朴な語り口で、老人はこう告げる。

“The evening’s the best part of the day. You’ve done your day’s work . Now you can put your feet up and enjoy it.”

(The Remains of the Day, Kazuo Ishiguro)

 

「夕方が一日でいちばんいい時間なんだ。脚を伸ばして、のんびりするのさ。夕方がいちばんいい。」

(カズオ・イシグロ『日の名残り』土屋政雄訳)

「夕方」とは、仕事の終わる時間であり、人生の老年期であり、誰にとっても等しく、空が美しく穏やかに染まっていく時間である。一文一文の短いシンプルな口調は、平仮名を多用して訳されており、読み手の心にすっと入ってくる。もちろん、老執事の心にも。

老人が立ち去った後も、スティーブンスはベンチに腰掛けたまま景色に浸る。桟橋に色とりどりの電球がともるのを待ち、いざそうなると、ただそれだけで歓声を上げる老若男女の姿を眺めながら。そこにいるのは、老執事でも、イギリス紳士でもなく、ただ座って夕暮れの海を眺める一人の人間だ。

私も、大聖堂のあるイギリスの田舎町で暮らしていたときは、学校の帰りに川辺で休み、ターナーが描いたときから変わっていないオールドタウンの一日が暮れるのを見た *1 。たった一人で、英語も日本語も話さずに、じっと静かに何かを待つ時間はいつの間にか習慣になっていた。

きっと、ぼんやりたたずむスティーブンスの様子を見ても、ほかの登場人物たちは取り立ててがっかりはしなかっただろうと思う。雇い主も、執事仲間も、女中頭も、スティーブンスが執事の「品格」を完璧に体現していると信じて、それゆえに慕っていたわけではないはずだ。

スティーブンスがしばしば執事として適切な振る舞いをしていなかったことは、彼の回想の端々からもうかがい知れる。周りの人物たちは、それを当たり前のこととして知りながら、それでも執事としての「品格」をかたくなに追求する彼のことを時に笑い、時に怒り、時に敬い、とりわけ女中頭は、時にいとしく思いながら、共に過ごしていたのではないだろうか。

何かでいなくてよいとき

人間は すぐに は変わらないけれど、日々、少しずつ変化している。私たちは変化しながらも、私たち自身であり続ける。その姿は、自分自身が思い浮かべる自己像を常に、少しだけ、越え出ているのだ。

何事も抜かりなくやっているときよりも、執事であるとき、息子であるとき、友人であるとき、会社員であるとき、母であるとき、妻であるとき・・・あろうと努めているとき、そうでなくてはならないと思っているときよりも、空がその日の終わりを告げる時間に、ホッと息をついて顔を上げるとき。目の前の景色にふっと息をのみ、視線を遠くまで延ばしているときの方が、私たちはずっと、私たちが思っているよりも、私たち自身である。

次回は2021年7月16日に公開予定です。

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▼エリザベト怜美さんの連載「イギリス育ち翻訳者の哲学的生活」

記事中の写真撮影:エリザベト怜美

エリザベト怜美(えりざべと れみ) 翻訳者。1991年、横浜に生まれ、イギリスで育つ。上智大学文学部哲学科卒。在学中から翻訳会社に勤務し、アートギャラリー、広告代理店を経て独立。主に、広告、海外ボードゲーム、映像作品の翻訳を手掛ける。ボードゲーム『プレタポルテ』『クロニクル・オブ・ クライム』『テインテッド・グレイル』翻訳。
Twitter: @_elizabeth_remi

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