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交響する言葉を生きる──逐語訳の力【翻訳を哲学する】

翻訳を哲学する

皆さんは翻訳における「意訳」と「逐語訳」についてどのようなイメージをお持ちでしょうか?現代では「意訳」に比べて「逐語訳」はあまり人気がなく、ときには単に「工夫がない訳」のように見られることもありますが、翻訳論の歴史を振り返ってみると、実は「逐語訳」には大切な力があることがわかります。この連載では、哲学がご専門の柿木伸之さんと一緒に、「翻訳」について深く考えていきましょう。

パンデミックにさらされるなかで、また地球規模の気候変動に直面するなかで、地上に生きることが根底から問われている。このまま前へ進むなら、さらに大きな災厄を招くだろう。いったん立ち止まって危機的な状況と向き合い、命をつなぐ営みを見つめ直す思考が求められているのではないだろうか。この思考を貫くのが哲学である。哲学は、出来上がった教えを答えとして与えるものではない。生をその構成要素から問い続けるところにのみ哲学がある。それを哲学することと言い換えるなら、それは危機を生き延びる可能性へ向けて、生そのものを問う思考の活動である。

そうした哲学にとって最も重要なテーマの一つに言語がある。言語は、人が世界に生きる見通しを与えながら、そこで他者とともに生きることを成り立たせている。その一方で今、人を傷つけ、人々を引き裂く言語の暴力も剝き出しになっている。その問題を見据えつつ、あらためて言語へ問いを差し向けてみたい。さまざまな背景を持つ他者とのあいだに応え合う回路を開きながら、また世界の多彩さを反響させながら、言葉を生きる可能性へ向けて。そのことを貫くのが翻訳ではないだろうか。このような問題意識の下、ここでは翻訳を哲学することを試みることにする。

ベンヤミンの翻訳の哲学

言葉を発すること自体に翻訳が含まれると考える哲学者に、ハーマン(Johann Georg Hamann, 1733–88)がいる。カント(Immanuel Kant, 1724–1804)と同時代に、同じケーニヒスベルク(現在はロシア領カリーニングラード)で活動したハーマンは、「語るとは翻訳することである」と述べている。その思想から影響を受けながら、20世紀の前半に翻訳から言語を問うた思想家がベンヤミン(Walter Benjamin, 1892–1940)である。彼は、第一次世界大戦中の1916年に書いた「言語一般および人間の言語について」に、「翻訳の概念を、言語理論の最深の層に基礎づけることが不可欠である」と記している。

この言語論においてベンヤミンは、聖書を解釈しながら、世界を創造した神の言語の響きが、人間の言語のなかに残っているという見方を示している。しかも、神の言葉は、翻訳とともに反響するという。例えば、「ヨハネによる福音書」の冒頭では、「万物はことばによって成った」と語られる。この「ことば(ロゴス)」は、万象を無から創造する。これに対して人間の言語は、そのような創造性を持ち合わせていない。すべてが成った後、地上で遭遇する人や事物に応じるとき、人間は初めて言葉を発する。このとき人間は、他の被造物の言語を翻訳しているというのである。

ベンヤミンによれば、この翻訳は、他の被造物の声を響かせる。例えば、森のざわめきのなかから、ある鳥の声を聞き分け、その名を呼ぶなら、その鳥の歌が響き始める。それとともに、この鳥の存在が世界の現実となる。このとき、神の言語の創造力が人間の言葉にこだましているのだ。こうして楽園の人間は、翻訳しながら交響する世界を生きていた。しかし、人間は楽園にとどまることはできなかった。聖書の「創世記」に語られるように、知恵の実を食べた最初の二人の人間はエデンの園から追われ、天に届く塔をバベルに建てようとした人々は、言葉を通い合わせることができなくなってしまった。

人はその後の世界に生まれる。情報伝達の道具と化した言語を「母語」として身に付けるほかはなく、またその一つひとつの言葉も、恣意(しい)的にある意味と結びついているだけである。突き詰めれば、言葉はもはや何も語っていない。他の被造物が沈黙するなか、無数に分立した言語が虚(むな)しい喧騒(けんそう)だけを響かせている。そのような状況の内側で、何かを実質的に語る力を言語のうちに再び見いだすために、1920年代の初頭、ベンヤミンをはじめとする思想家が、翻訳の可能性を問うていた。その問いは、第一次世界大戦によって崩壊した世界のなかに、言葉を生きる道を探るものでもあったはずだ。

他者の言葉を反響させる翻訳

ここで忘れられてはならないのは、思想家たちが、翻訳を実践しながらその可能性を問うていたことである。そのような一人に、ローゼンツヴァイク(Franz Rosenzweig, 1886–1929)がいる。彼は主著の『救済の星』(1921年)のなかで、翻訳は「舌と舌のあいだに橋を架ける」と述べているが、彼はそのような翻訳を、時空を越えた架橋へ向けて試みていた。彼は中世のヘブライ語詩人イェフダ・ハレヴィ(Jehuda Halevi, ca. 1075–1141)の92の讃歌(さんか)をドイツ語へ翻訳して出版している。この選集にローゼンツヴァイクは、あとがきを付しているが、そこで彼は逐語的に翻訳しようと努めたと述べている。

ほぼ時を同じくしてベンヤミンは、ボードレール(Charles Baudelaire, 1821–67)の詩集『悪の華』の一部をドイツ語へ翻訳している。1923年に翻訳を独仏対訳のかたちで出版する際、ベンヤミンは、「翻訳者の課題」と題する論考を序文として付している。そこで強調されるのも翻訳の「逐語性への要請」である。同時期に二人のユダヤ人思想家が、詩的作品の逐語訳を主張しているのだ。翻訳は、原作の言葉遣いの一つひとつに忠実であることが求められる。裏返せば、意訳は許されないことになる。ベンヤミンは、自己の言語の内部で意味を再現する翻訳を、悪しき翻訳の典型として挙げている。

ローゼンツヴァイクもまた、当時流布していた、例えばドイツ語で容易に理解できるように原文を作り変えてしまう「翻案」──書名などに見られる「超訳」なるものも、これに近いだろう──を批判している。それは、「何も言うべきことがない人が語るように翻訳する」のだ。この指摘は、彼とベンヤミンが意訳を批判する際の焦点を指し示している。要するに意訳は、他言語の言葉の異質さを削ぎ落とし、原文を、自分たちの言語の枠内で一義的な意味を伝える記号の連鎖へ還元してしまうのだ。それを前にしては、詩的な作品を読む意味は完全に失われてしまう。

特異とも言える言葉遣いで何かを新たに語ることが、それによって独特の世界を読む者のうちに開くことが、言葉の詩的な創造性の核心にある。意訳は、このことを骨抜きにしてしまう。それだけではない。言語そのものを、情報伝達の手段に解消してしまうのだ。そのような言語は、仲間内の意思疎通の道具としてのみ通用する。それが流通する回路では、人はけっして他者に遭遇しない。ローゼンツヴァイクは翻訳によって、「イェフダ・ハレヴィはドイツの詩人でも同時代人でもない」ことを伝えようとしたわけだが、意訳してしまうと、そのような他者に出会う余地はふさがれてしまう。

例えば、ドイツ語の話者が容易に理解できるように、他の言語で書かれた作品を翻訳するなら、その異質な言葉遣いも、これを媒体として何かを語る他者の存在も否定されてしまう。文学作品の翻訳だけに限らず、意訳は、異なった背景を持つ他者を受け容れないことに行き着く。同時に言語そのものが、そのような他者の異質な声を閉ざすようになる。それはノイズとして初めから排除されてしまうのだ。こうして言葉と言葉のあいだを引き裂きつつもある言語の内部に、異質な言葉が響く余地を切り開くべく、ベンヤミンとローゼンツヴァイクは、逐語的な翻訳を追求している。

逐語訳の力

逐語的に訳すとは、ローゼンツヴァイクによれば、他言語で何かを新たに語る息遣いを、翻訳に響かせることである。「翻訳者は、異質な声を時空の深淵を越えて聴き取られるようにする拡声器になる」と彼は述べる。では、異質な言葉遣いが反響するように翻訳するとはどういうことだろう。これを「原作のこだま」を響かせる業と呼びながら、ベンヤミンは、原作の言葉が何かを語ろうとする姿──これを彼は「意味する仕方」と呼ぶ──に寄り添う「逐語性」を要求する。翻訳は、原作への「愛を込めて、その意味する仕方を個々の細部に至るまで、自己の言語に形成しなければならない」。

そのように翻訳するとは、ひたすら個々の語や統語を再現するのとは異なる。ベンヤミンが「逐語性」に見ているのはむしろ、個々の具体的な表現と不可分なかたちで何かを新たに語ろうとする姿を、別の言語で見いだす働きだろう。彼に言わせると、その姿には神の創造の「ことば」が微かにこだましている。翻訳はそれをさらに反響させる。それとともに翻訳者の言語も、実質的に何かを語る力を取り戻しながら生成し始める。その運動は、「母語」として想定される言語が内側から揺さぶられるなかに生じる。そしてそこには、言葉が意味の伝達から完全に乖離(かいり)してしまう危険も潜んでいる。

ベンヤミンはその危険を、詩人ヘルダーリン(Friedrich Hölderlin, 1770–1843)が古代ギリシアのソポクレスの悲劇を徹底的な逐語訳でドイツ語へ翻訳した後、狂気に陥ったことに見ている。この危険に身をさらしながら、何かを新たに語る言葉遣いに寄り添う翻訳。それは翻訳する言語を、他の異質な言葉に、それを語る他者に開きながら、現実を──詩的な虚構にあるそれであれ──語り出す言葉へ生まれ変わらせる。ベンヤミンとローゼンツヴァイクの翻訳論は、他の言語とのあいだに応え合う回路を切り開きながら、作品の新たな歴史を、さらには言語そのものを創る力を、翻訳に見届けている。

参考文献

■川中子義勝編訳『北方の博士・ハーマン著作選』沖積舎、2002年。

■山口裕之編訳『ベンヤミン・アンソロジー』河出書房新社、2011年。

■フランツ・ローゼンツヴァイク『救済の星』村岡晋一他訳、みすず書房、2009年。

■同『新しい思考』村岡晋一、田中直美編訳、法政大学出版局、2019年。

■柿木伸之『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』平凡社、2014年。

柿木伸之

柿木伸之(かきぎのぶゆき)西南学院大学国際文化学部教授。研究の専門は哲学と美学。著書に『ヴァルター・ベンヤミン──闇を歩く批評』(岩波新書、2019年)、『断絶からの歴史──ベンヤミンの歴史哲学』(月曜社、2021年)、『ベンヤミンの言語哲学──翻訳としての言語、想起からの歴史』(平凡社、2014年)などがある。
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