彼の側、彼女の側/レイモンド・カーヴァー【英米小説翻訳講座】

英米小説翻訳講座

翻訳家の柴田元幸さんが、毎回一人、英米現代・古典の重要作家を選び、その小説の翻訳術を紹介します。まずは作家の特徴がよくわかる文章と、柴田翻訳の妙技をご堪能ください。

紹介する作家:レイモンド・カーヴァー

Raymond Carver

1938 年アメリカ、オレゴン州生まれ。アルコール依存と闘いながら執筆を続けた初期を経て、80 年代の短篇集「愛について語るときに我々の語ること」などで高い評価を得る。1988 年没。村上春樹が翻訳し、日本で広く知られるようになった。

『Why Don’t You Dance?』

In the kitchen, he poured another drink and looked at the bedroom suite in his front yard. The mattress was stripped and the candy-striped sheets lay beside two pillows on the chiffonier. Except for that, things looked much the way they had in the bedroom—nightstand and reading lamp on his side of the bed, nightstand and reading lamp on her side. His side, her side. He considered this as he sipped the whiskey.

(Why Don’t You Dance?, 1978)

キッチンで、彼はもう一杯酒を注ぎ、庭に並べた寝室の家具を見た。マットレスはむき出しにされ、赤白縞のシーツはタンスの上の枕二つの横に置いてある。それを別とすれば、すべては寝室にあったときとほぼ同じに見えた。ベッドの彼の側にナイトテーブルと読書ランプ、彼女の側にナイトテーブルと読書ランプ。
 彼の側、彼女の側。
 ウィスキーを一口飲みながらこのことを彼は考えた。

(「踊らないか?」)

この連載を始めた時の方針として、既訳はないことにすると決めた。あたかも誰も訳していないかのように、毎回一人の作家の文章を論じる。なので、今回レイモンド・カーヴァーを論じる上でも、彼の全作品を訳した村上春樹さんの訳業はひとまずないことにさせていただく(まあ、村上さんに全訳してもらってカーヴァーは幸運だった、くらいは言いたいが)。

さて、カーヴァーの文章。取り上げたのは彼の第二短篇集What We Talk About When We Talk About Love(1981)の巻頭に収められた作品である。この一冊でアメリカ短篇小説の新しい方向性が定まったと言ってもいいくらい影響力のあった短篇集であり、多くの読者はまずこの一篇によってカーヴァーの小説世界に触れた。

ご覧のとおり、ごくごくシンプルな文章である。室内にあったものが戸外にさらされているのと同じように、カーヴァーの単純なセンテンスは登場人物をいわば丸腰にして文章のなかにさらす。人は威厳も個性も、さらには下手をすればアイデンティティも奪われていて、どこまでも無防備である(それを裏付けるかのように、この作品をはじめ多くの作品で登場人物は名前を与えられないし、与えられていてもWes, Burt といった一、二音節の名前であり、間違ってもAlexander とかElizabeth とかは出てこない)。カーヴァーを読んでいると、stark(荒涼とした、空っぽの)という言葉がたびたび思い浮かぶ。たぶんカーヴァー自体はその言葉を使っていないと思うが、それも当然である―すべてがstark である世界にstark という言葉は必要ない。

引用の文章から、登場人物の生活や生活の細部はほとんど浮かび上がってこない。唯一形容詞と言える“candy-striped” も人物の個性を伝えはしない。小説において持ち物はしばしば持ち主の個性を伝えるが、カーヴァーの場合、持ち物と持ち主の関係のちぐはぐさしか浮かび上がらない。唯一何かが見えてくるのは、“he poured another drink” という第一文のフレーズである―男が飲んでいるのはこれが一杯目ではない。

そして“His side, her side” という一行が、この男女がもう一体ではなく二つに分かれてしまったことを―あるいは初めから分かれてしまう萌芽が二人の関係に含まれていたことを―暗示する。普通なら「彼」「彼女」という代名詞の連発を避けるために「男の側、女の側」と訳す選択肢も考えるところだが、「男」「女」という言い方にくっついてくるわずかなドラマ性さえここでは邪魔である。カーヴァーを訳す上では、気の利いた日本語のフレーズを考えることより、stark さをノイズなしに伝えることが肝要である。

とはいえ、カーヴァーの文章に(当たり前だが)何の技巧もないということでは決してない。ただ、文章があまりにシンプルで、その効果は多くの場合無意識のレベルで起きるので(だからこそ強いのだが)、言葉にするのは難しい。が、すぐれた読み手は巧みにそれを言語化してみせる。たとえば“Why Don’t You Dance?” という題名が出てくる一節について、ブライアン・エヴンソンはこう書く。

When I first read it, I marked not moments where something significant happens plot-wise, but moments like this: “Why don’t you kids dance? he decided to say, and then he said it. ‘Why Don’t you dance?’” Another writer might have chosen to drop that last sentence, thinking “and then he said it” was enough. But Carver’s repetition adds humor and the slight variation, both keep it from being too absurda repetition and also suggests a disjunction between thought process and speech. He’s decided to say something, and then he says it. Only he doesn’t say exactly what he’s decided to say. Why? I couldn’t help but momentarily wonder. That interaction of repetition and variation is one of the things that Carver does exceptionally well, and at just the right times.

初めて読んだとき、私は物語上意味ある出来事が起きる箇所ではなく、たとえば次のような箇所に印をつけた。「君たち、踊らないか? と彼は言うことに決め、そしてそれを言った。『踊らないか?』」。ほかの作家であれば、最後の「踊らないか?」は削ることにするかもしれない―「そしてそれを言った」で十分だからと考えて。だがカーヴァーの反復はユーモアを加え、わずかな変奏を作り出す。その両者が、反復があまりに馬鹿げたものになることを防いでいるし、思考過程と発話とのあいだの分裂を示唆してもいる。彼は何かを言おうと決め、そしてそれを言う。ただし、言おうと決めたことをまったく 同じには言わない。なぜか?

私はしばし問わずにはいられなかった。反復と変奏のそういう相互作用をカーヴァーは非常に得意とし、しかもそれを絶妙のタイミングでやってのける。

ちなみに当時のカーヴァー作品は編集者ゴードン・リッシュが大幅に手を入れたことで有名だが、エヴンソンは自身がのちリッシュと持った複雑な関係も述べていて、作家と編集者の確執の話としても興味深い。カーヴァー最後の短篇は“Chekhov. On the evening of March 22, 1897 ...”(チェーホフ。1897 年3 月22 日の晩……)とはじまってチェーホフの死が描かれ、それまでの無名性とはうって変わった世界が展開される(“Errand,”1987)。この後はこういう方向に転換するのか我々が知ることもなく、カーヴァーは50 歳で亡くなってしまった。

柴田元幸さんの本

ぼくは翻訳についてこう考えています -柴田元幸の意見100-

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  • 発売日: 2020/01/29
  • メディア: 単行本
【音声DL有】新装版 柴田元幸ハイブ・リット

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  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: アルク
  • 発売日: 2019/12/17
  • メディア: 単行本

文:柴田元幸

1954(昭和29)年、東京生まれ。米文学者、東京大学名誉教授、翻訳家。ポール・オースター、スティーヴン・ミルハウザー、レベッカ・ブラウン、ブライアン・エヴンソンなどアメリカ現代作家を精力的に翻訳。2005 年にはアメリカ文学の論文集『アメリカン・ナルシス』(東京大学出版会)でサントリー学芸賞を、2010年には翻訳『メイスン&ディクスン(上)(下)』(トマス・ピンチョン著、新潮社)で日本翻訳文化賞を、また2017年には早稲田大学坪内逍遙大賞を受賞。文芸誌「MONKEY」(スイッチ・パブリッシング)の責任編集も務める。

※本記事は『ENGLISH JOURNAL』2018年7月号に掲載された記事を再編集したものです。

出典:Raymond Carver, What We Talk About When We Talk About Love
(Vintage Classics)―, Where I’m Calling From (Vintage Classics) Brian Evenson, Raymond Carver’s What We Talk About When We Talk About Love: Bookmarked (Ig Publishing, 2018)