笑って読めコンラッド/ジョゼフ・コンラッド【英米小説翻訳講座】

【英米小説翻訳講座】

翻訳家の柴田元幸さんが、毎回一人、英米現代・古典の重要作家を選び、その小説の翻訳術を紹介します。まずは作家の特徴がよくわかる文章と、柴田翻訳の妙技をご堪能ください。

紹介する作家:ジョゼフ・コンラッド

Joseph Conrad

1857 年、ベルディチェフ(現ウクライナ)生まれ。16 歳で船乗りになり、イギリス船の上で英語を学ぶ。1899 年に発表した『闇の奥』が後世の文学に与えた影響は大きい。ほかの代表作に『ロード・ジム』などがある。1924 年没。

『Heart of Darkness』(1902)

“A narrow and deserted street in deep shadow, high houses, innumerable windows with venetian blinds, a dead silence, grass sprouting between the stones, imposing carriage archways right and left, immense double doors standing ponderously ajar. I slipped through one of these cracks, went up a swept and ungarnished staircase, as arid as a desert, and opened the first door I came to. Two women, one fat and the other slim, sat on straw-bottomed chairs, knitting black wool. The slim one got up and walked straight at me—still knitting with  downcast eyes—and only just as I began to think of getting out of her way, as you would for a somnambulist, stood still, and looked up. . . .”

(Heart of Darkness, 1902, Ch. 1)

「深い影、高い家々、ブラインドのついた無数の窓に囲まれた、狭く人けのない通り。死んだような沈黙。石のすきまから雑草が飛び出し、馬車を通す堂々たるアーチが右に左にそびえて、巨大な扉が物々しくわずかに開いている。私はそうしたすきまのひとつに滑り込んで、きちんと掃いた飾りけのない、砂漠のごとく不毛な階段をのぼり、最初にたどり着いたドアを開けた。一方は太って一方は痩せた二人の女性が、座部が藁わらで出来た椅子に座って黒い毛糸を編んでいた。痩せた方が立ち上がって、まっすぐ私の方に歩いてきて―目を伏せたまま依然編み物は続けている―夢遊病者に道を空けるみたいに彼女の針路から外れようかと私が考えはじめたところでぴたっと立ちどまり、顔を上げた……」

(『闇の奥』第1 章)

『Lord Jim』(1900)

“. . . The head of the magistrate, delicately pale under the neatly arranged hair, resembled the head of a hopeless invalid after he had been washed and brushed and propped up in bed. He moved aside the vase of flowers—a bunch of purple with a few pink blossoms on long stalks—and seizing in both hands a long sheet of bluish paper, ran his eye over it, propped his forearms on the edge of the desk, and began to read aloud in an even, distinct, and careless voice. . . . ”

(Lord Jim, 1900, Ch. 14)

「……裁判官はといえば、きちんと整えた髪の下で顔は華奢に青白く、さながらその頭部は、もはや回復の望みのない病人が顔を洗われブラシをかけられてベッドで上半身を起こされたという風情だった。花の入った花瓶―紫の花が一束と、茎の長いピンクの花が少し―を裁判官は脇へどけて、細長い青っぽい紙を一枚両手でがばっと摑み、ざっと目を通してから、机の縁に両方の腕を当てて、むらのない、はっきりした、ぞんざいな声で読み上げはじめた……」

(『ロード・ジム』第14 章)

フォークナーやフィッツジェラルドに崇拝される一方、ナボコフには「子供の本の書き手」と切り捨てられ、ナイジェリアの代表的作家チヌア・アチェベからは人種差別主義者と罵られる一方、むしろ植民地主義の闇をいち早く見通したと評価されることも多い、さらに、一般的にはコッポラ監督の『地獄の黙示録』(Apocalypse Now, 1979)の「原作者」として名が挙がることが一番多い(正確に言うと、コンラッドの『闇の奥』にインスパイアされたコッポラが、物語の核はそのまま使いつつ舞台を19 世紀末のコンゴから1960 年代のベトナムに移して『地獄の黙示録』を撮った)と思われるジョゼフ・コンラッド。

なかなか人によって見え方の違う書き手であるが、僕にとってのコンラッドは、まずは「笑える作家」である。

最初に引用したのは、『闇の奥』で親戚のコネに頼って船長職を得たマーロウが、ロンドンでその手続きに行く場面。コンラッドの世界では、ある状況や環境があって、それに相応しい人間がそこにしっくり収まっているということはまずない。

どこへ行っても、誰もが場違いであり、真面目であってもよさそうな場面でもつねにどこか茶番めいている。そのことが、コンラッドを「笑える作家」にしている。

とはいってもそれは、真面目さ、深刻さを軽減するための滑稽さではない。むしろそれは、あまりに真剣に世界を見ることによって、世界が意味をなしていないことを逆に発見してしまった人間が提示する、アイロニーに満ちた滑稽さである。

勇気とは、英雄であるとは、といった大時代的な問いをコンラッドはしばしば立てるが、それがまさに大時代的であって今日(コンラッドの生きた今日であれ、我々が生きる今日であれ)まったく意味をなさないかもしれないという意識もそこにはつねにある。

これに誰よりも似ているのは、頽廃したロサンゼルスできわめて個人的な倫理を貫きとおす私立探偵を描きつづけたレイモンド・チャンドラーだろう(ちなみに『闇の奥』『ロード・ジム』の大半を語るコンラッドの最重要語り手の名がMarlowであり、チャンドラーの私立探偵がPhilip Marloweであることにいかなる現実的因果があるかは不明だが、彼らが文学的兄弟であることは間違いない)。

たとえば『ロード・ジム』においても、ジムにとっては自分がたった一度だけ犯したかもしれない臆病な行為の意味を決定するきわめて重要な裁判も、二番目の引用のごときなんとも「テキトー」な裁判官によってあっさり片づけられてしまう。

といってもコンラッドは、こういうテキトーさに憤っているのではない。憤るとすれば、世界に正義があるとナイーブに信じている人間ということになる。逆に、世界なんてしょせんこの程度さ、とシニカルに達観しているのでもない。

そのようなシニカルさはコンラッドを、勇気も英雄性も絵に描いた餅でしかないと決めている人間にしてしまう。彼はそのどちらでもない(あるいはどちらでもある)。この両者のあいだを揺れつづけることが、コンラッドをコンラッドにしている。

というわけで、あまり翻訳の話ができなかったが、これまで「笑えるコンラッド」という側面はあまり顧みられてこなかったと思うので、まずはこの点を訳においても再現することの重要性を強調しておきたい。何しろややこしい構文であることも多いので、これまた往々にしてEasier said than done(言うは易し行なうは難し)なのですが……

柴田元幸さんの本

ぼくは翻訳についてこう考えています -柴田元幸の意見100-

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【音声DL有】新装版 柴田元幸ハイブ・リット

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文:柴田元幸

1954(昭和29)年、東京生まれ。米文学者、東京大学名誉教授、翻訳家。ポール・オースター、スティーヴン・ミルハウザー、レベッカ・ブラウン、ブライアン・エヴンソンなどアメリカ現代作家を精力的に翻訳。2005 年にはアメリカ文学の論文集『アメリカン・ナルシス』(東京大学出版会)でサントリー学芸賞を、2010年には翻訳『メイスン&ディクスン(上)(下)』(トマス・ピンチョン著、新潮社)で日本翻訳文化賞を、また2017年には早稲田大学坪内逍遙大賞を受賞。文芸誌「MONKEY」(スイッチ・パブリッシング)の責任編集も務める。

※本記事は『ENGLISH JOURNAL』2017年10月号に掲載された記事を再編集したものです。

出典:Joseph Conrad, Heart of Darkness(Penguin Classics 等)――, Lord Jim(Penguin Classics 等)