小説『ライ麦畑でつかまえて』から読み取る青春の切ない思い【英米文学この一句】

翻訳家の柴田元幸さんが、英米現代・古典文学に登場する印象的な「一句」をピックアップ。その真意や背景、日本語訳、関連作品などに思いを巡らせます。シンプルな一言から広がる文学の世界をお楽しみください。

I’d just be the catcher in the rye and all.

J. D. Salinger, The Catcher in the Rye (1951)

またまた放校になった兄を、出来のいい妹が叱りつける。お兄ちゃんは好きなもの、なりたいものがなんにもないじゃない!何か一つでも、なりたいものがあったら言ってみなさいよ!そう迫られて、兄ホールデンが口にするのがこの答え。

「ライ麦畑の捕まえ係になりたいんだよ」。

典型的なホールデン語尾“and all”(「~とか」に近い)もちゃんと付いている。この小説から「この一句」を抽出するとしたらやっぱりこれだろう。

まず、ホールデンの頭にあるのは古い歌である。「ほら、“If a body catch a body comin’ through the rye”(ライ麦畑を通りかかった誰かさんを誰かさんが捕まえたら)って歌あるだろ。僕はさ・・・」。

すると出来のいい妹はすかさず、「あれは“If a body meet a body・・・”よ、ロバート・バーンズの詩よ!」と、正しい詩句と作者を告げるのである。あ、そうなんだ、と正確さなんてものとは無縁の兄は言い、続けて

“Anyway, I keep picturing all these little kids playing some game in this big field of rye and all. Thousands of little kids, and nobody’s around  ̶  nobody big, I mean  ̶  except me. And I’m standing on the edge of some crazy cliff. What I have to do, I have to catch everybody if they start to go over the cliff  ̶  I mean if they’re running and they don’t look where they’re going I have to come out from somewhere and catch them. That’s all I’d do all day. I’d just be the catcher in the rye and all.”

とにかくさ、いつも想像してるんよ、こう、おっきなライ麦畑があってさ、小さい子供がいっぱい、何かして遊んでるわけ。何千人もいて、ほかには僕しか―だから、大きい人間は僕しか―いないわけ。で、僕はどっかの馬鹿みたいな崖っぷちに立ってるんだ。僕の仕事はさ、誰かが崖から落ちかけたら捕まえるのが僕の仕事なんだよ―だから、子どもが夢中で走ったりして前とか見てなかったら僕がどっかから出てきて捕まえるんだ。一日じゅうそうしてるんだよ。僕はただライ麦畑の捕まえ係になりたいんだ。

何を言っても叱りつけモードの妹フィービーも、この発言には何も言わない。沈黙はフィービーにしてはすごい賛辞である。

思いっ切り象徴的に読んでしまえば、子どもが崖から落ちるとは子どもが子どもでなくなってしまうこと、大人になってしまうことである。大人になることを堕落と捉えるのはアメリカ文学では珍しくないが、この小説ほどそれをはっきり打ち出した作品も珍しい

このあとでフィービーが回転木馬に乗っているのを眺めるホールデンがとても幸せな気持ちになるのは、回転木馬に乗っている限りフィービーはどこへも行かずどこへも落ちないからだ(むろん、どの子どももいつかは回転木馬から降りねばならないのだが)。

そして、この「捕まえ係になりたい」の一節がひどく切ないのは、言うまでもなく、ホールデン自身が大人になりかける過程の真っ最中だからである。崖から落ちるのをホールデンが救いたいのは―そして救えないのは―誰よりもまず自分自身なのだ。

柴田元幸
柴田元幸

1954年、東京生まれ。アメリカ文学者・東京大学名誉教授。翻訳家。アメリカ文学専攻。『生半可な學者』で講談社エッセイ賞受賞。『アメリカン・ナルシス』でサントリー学芸賞受賞。トマス・ピンチョン著『メイスン&ディクスン』で日本翻訳文化賞受賞。アメリカ現代作家を精力的に翻訳する他、『ケンブリッジ・サーカス』『翻訳教室』など著書多数。文芸誌『MONKEY』の責任編集を務める。

※本記事は『ENGLISH JOURNAL』2020年12号に掲載した記事を再編集したものです。

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